水之江文二郎
水之江文二郎 みずのえ ぶんじろう | |
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生年月日 | 1860年11月29日 |
出生地 |
日本 豊前国宇佐郡 (現大分県宇佐市) |
没年月日 | 1929年2月11日(68歳没) |
出身校 |
旧東京大学医学部中退 (現東京大学医学部) |
所属政党 |
(立憲政友会→) 政友本党 |
配偶者 | 水之江里宇 |
親族 | 養父・水之江浩(貴族院議員) |
選挙区 | 大分県郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1902年8月10日 - 1903年12月11日 |
第11代 大分県会議長 | |
在任期間 | 1899年9月25日 - 1902年11月8日 |
宇佐郡会議長 | |
宇佐郡会議員 | |
その他の職歴 | |
封戸村長 ( - ) |
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日[1])- 1929年(昭和4年)2月11日[2])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰[3]。
経歴
豊前国宇佐郡、のちの大分県[2]宇佐郡和間村[4]鶴田新田[3](長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門[3])の二男として生まれる[1][5]。漢学、詩学、歌道を修める[1][2][3][4][6]。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び[1][2][4][6]、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学した[1][2][3][4][6]が病のため退学し[3][6]、書法を研究した後に帰郷した[1][6]。
1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄[3]・水之江浩の養嗣子となった[1][3][6]。1889年(明治22年)封戸村長に就任し3期在任した[2][3]。その他、町村組合会議員、宇佐郡会議員、大分県会議員を務め[1][2][3][4][6]、1899年(明治32年)郡会議長、県会議長に選出された[2][3][4][6]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、立憲政友会)で初当選し[1][3][7]、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙(大分県郡部、政友会)でも再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4]。政友会県支部の結成に参画し支部長を務め[3]、その後、政友本党が結成されるとその支部長となった[3]。
実業界では、日豊線鉄道期成会幹事、大分県農工銀行取締役、両豊銀行取締役、両豊貯蓄銀行取締役、大分電気工業取締役、九州工業取締役、九州調革取締役などを務めた[2][3][5]。
その他、学校建築などの公共事業に多額の寄付を行った[3]。
親族
- 妻 水之江里宇(養父長女)[5]
脚注
参考文献
- 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。