岩井商店
岩井商店(いわい しょうてん)は、岩井勝次郎が明治29年(1896年)に創業した鉄鋼商社で、岩井財閥の中核企業である。1968年に日商(鈴木商店系)と合併して日商岩井(現:双日)となった。
経歴
岩井勝次郎の伯父であり義父となる岩井文助は、幕末に舶来雑貨商として出発した。文久2年(1862年)、加賀屋の屋号で大坂京町の堀通りに舶来雑貨の売買仲介業を始めた。文助は天保13年(1842年)、丹波国桑田郡上平屋(現・京都府南丹市美山町上平屋)の農家に生まれ、嘉永6年(1853年)、大坂浄覚寺町の唐物問屋加賀屋徳兵衛の店に奉公に出た。文助が21歳の時、徳兵衛の別家となり、独立開業した。
一方、文助の甥にあたる蔭山勝次郎は、文久3年、丹波国桑田郡旭村の農家に生まれた。勝次郎は明治8年(1875年)、文助方に奉公に出て、明治22年に文助の長女栄子と結婚して婿養子となり、蔭山姓から岩井姓となった。以後の加賀屋は、文助・勝次郎の共同企業の性格を持つにいたった。
ところが、文助と勝次郎の間には、事業観に相違があった。文助には旧来の商家に伝統的な「下町風」なところがあったのに対して、勝次郎にはより尺度の大きい、いわば「国土風」なところがあったため、明治29年(1896年)に勝次郎は独立営業に踏み切り、現在の大阪市中央区南久太郎町4丁目に店舗を設けた。これが岩井商店のはじまりで、大正元年(1912年)10月、加賀屋文助からの創業50周年を期に、株式会社岩井商店となり、さらに昭和18年(1943年)6月、政府(軍部)の指導により岩井産業株式会社と改められた。その後、1968年に日商と合併して日商岩井となった。証券コードは8056(現、日本ユニシス株式会社)。
岩井商店が鉄鋼商社としての体制を確立したのは、明治の中頃から大正にかけてのことである。岩井商店が初めて金属を輸入したのは、明治29年にロンドンのダフ商会を代理店として、勝次郎が直貿易を開始した時期であった。その後ダフ商会のほかにも、ニューヨークのマークト商会からUSスチールの薄鉄板、軟鋼板、軟鋼棒、帯鉄などを輸入し、またハンブルクのホイエル商会からも針金を輸入した。岩井商店が鉄鋼商社として特色付けられた他の理由として、官営八幡製鐵所の製品を明治末年~大正期の頃から払い下げを受けるようになったことが挙げられる。
八幡製鐵所では明治38年(1905年)から鋼材の民間払い下げを開始し、明治末年の頃から三井物産を中心とした「三井組」や、関西の鉄鋼問屋によって株式会社大倉組を代表とした「大倉組」が結成され、鋼材の払い下げが実施された。当時大倉組の主力メンバーには、鈴木、岩井、安宅、岸本の関西有力商社のほかに、東京の森岡商店が加わっていた。岩井商店はこうした取次式の商社機能を基盤にして、次第に輸入品の国産化構想を具体化するに至った。それは輸入品を国産化することによって、外貨を節約し、国益の増進をはかることを意図したものであった。そうした経営理念によって、岩井では明治末年から大正期にかけて、つぎの各種の工業会社の経営に乗り出した。
経営に乗り出した主な企業
- 白金莫大小・中央毛絲紡績→東亜紡織(現トーア紡コーポレーション)
- 日本セルロイド人造絹絲・大阪繊維工業→大日本セルロイド(現ダイセル)
- 大阪鐵板製造・德山鐵板→日本鐵板(現日新製鋼)
- 日本曹達工業→德山曹達(現トクヤマ)
- 岩井は大正7年に同社の全額出資により「日本曹達工業」(徳山)を設立、昭和11年に德山曹達と改称された。
- 関西ペイント
- 日本橋梁
このほか、岩井商店の出資により芝浦スプリング製作所(のちの日本発条)、大日本セルロイド(のちのダイセル化学工業、現ダイセル)から1部門の分離独立により富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス/富士フイルム)がそれぞれ設立された。
このように、岩井商店では明治末年から大正期にかけて見られた重化学工業の流れに対応して工業化路線の道を歩んだ。岩井文助、岩井勝次郎、岩井雄二郎と才能溢れる経営者が輩出した岩井は、後のビッグビジネスになるダイセル、富士フイルム、日新製鋼、トクヤマ、関西ペイントなど、各企業が岩井の全額出資あるいは資本参加により創設され、その発展をみている。また、他の財閥同様に財閥本社を設立(合資會社岩井本店 のち当社に合併)し、これらの関連企業は戦前まで当社で一括した採用活動を行っていた。
脚注
- ^ 私の履歴書 復刻版 大賀典雄日経新聞、2015/7/23
関連項目
- 小林節太郎 - 元社員