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木辻遊廓

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木辻遊廓(きつじゆうかく)は、奈良県奈良市にあった遊廓である。現在の東木辻町鳴川町・瓦堂町一帯に存在した[1]。 もとは田園や竹林であった[2]が、慶長寛永の頃に茶店が2、3軒できて遊女を置いたのが始まりである[1]万治寛文年間の禁止令で一度衰退したが、天和以降再び栄えた[1][3]

概要

寛永年間、虎蔵、竹蔵と名乗る2人が、太夫万戸と語らい、遊里を始めたという[2][4]

明暦3年(1657年)、江戸新吉原を開くにあたり、木辻の遊女を湯女としたとあり[5]、当時にはすでに繁華であったとみられる[2][6]

寛文9年(1669年)4月23日、安右衛門の傾城さほの・もしほのが自害し、与力同心町代検使に訪れている[2][7]。同年閏10月12日には、やはり安右衛門の傾城のるすんが失踪し、彼の母の人遣いが悪いと奉行所に訴えている[2][7]。翌10年12月1日には、平群郡福貴村又左衛門の息子勘兵衛が傾城葛城を連れ帰り在所で自害し、代官所検使を受けている[2][7]

天和2年(1682年)刊行の西鶴好色一代男には、「爰こそ名にふれし木辻町、北は鳴川と申して、おそらくよねの風俗都にはぢぬ撥音、竹隔子の内に面影見ずにはかへらまじ」と木辻の名が表れる[1]

貞享4年(1687年)の「奈良曝」では、「上郎町、町役廿軒、此町ニ上屋七軒、くつわ七軒有」とあり[2][1]揚屋の河内屋太郎介・山形屋太兵衛・綿屋長兵衛・同六介・越前屋七左衛門・三吉屋太右衛門、轡(遊女屋)の半四郎後家・上橋嘉兵衛・清兵衛後家・庄兵衛・三郎兵衛の名が記載されている[2]。また、「八重桜」に遊女屋の絵が載せられている[1]

宝永年間の店舗数は、轡15軒、茶屋19軒[2][8]天保13年(1842年)、遊女屋から22人の酌女を郡山東岡町・洞泉寺町の煮売茶屋などに派遣していたが、天保の改革で禁止となった[2][9]

明治12年(1879年)には、貸座敷19軒、娼妓89人で、同13〜19年は貸座敷14〜23軒、娼妓112〜180人の規模であった[2][10]

出典

  1. ^ a b c d e f 日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名) p.530
  2. ^ a b c d e f g h i j k 角川日本地名大辞典29 奈良県 p.384
  3. ^ 奈良坊目拙解
  4. ^ 大和名所図会「寛永6年に南都において傾城郭を訴詔し遊里を創建す」
  5. ^ 大和志料上、吉原江戸町喜久万楼主の訴状より
  6. ^ 大和志料上
  7. ^ a b c 町代日記
  8. ^ 宝永年間町代高木又兵衛諸事控(県立図書館藤田文庫)
  9. ^ 隠し売女御咎の記
  10. ^ 県警察史

参考文献

  • 『日本歴史地名大系. 第30巻 (奈良県の地名)』 (平凡社 1981年)
  • 角川地名大百科辞典編纂委員会編「角川日本地名大辞典29 奈良県」、角川書店、1990年3月、ISBN 9784040012902

関連項目