堤功長
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堤功長 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 弘化2年5月23日[1](1845年6月27日)[注 1] |
死没 | 大正2年(1913年)11月18日[1][3] |
改名 | 阿楽丸(幼名)[1]→功長 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 甘露寺家→堤家 |
父母 |
父:甘露寺愛長、母:家女房 養父:堤哲長 |
兄弟 |
甘露寺勝長、杉浦謙、隅田穂並、 竹園用長、功長、中川興長 養兄弟:松崎万長、亀井茲明、津守国敏 |
妻 | 長沢賢子(長沢賢成の長女) |
子 | 雄長、松子 |
堤 功長(つつみ いさなが)は、幕末の公家、明治から大正期の神職・政治家。貴族院子爵議員。
経歴
山城国京都で権中納言・甘露寺愛長の五男として生まれ、右兵衛督・堤哲長の養子となる[1]。安政2年6月14日(1855年7月27日)叙爵し、安政5年9月24日(1858年10月30日)に元服して昇殿を許され勘解由次官に任じられた[2]。その後、右兵衛佐となり明治維新を迎えた[2]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[4]。
1873年(明治6年)4月18日、若松県十四等出仕に任じられた[3][2]。以後、史生、談山神社宮司兼中講義、中祗候、岩手県属、青山御所祗候などを務めた[3][2][5][6]。
1892年(明治25年)7月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、死去するまで三期在任した[3][5][9]。
1913年11月、病のため赤十字病院で死去した[5]。
系譜
脚注
注釈
出典
参考文献
- 堤功長差出『堤家譜』1875年。 - 東京大学史料編纂所所蔵。
- 人事興信所 編『人事興信録』(3版)人事興信所、1911年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 稲村徹元ほか 編『大正過去帳:物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 大賀妙子 編『幕末公家集成』新人物往来社、1993年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成下巻』吉川弘文館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 堤家初代 1884年 - 1913年 |
次代 堤雄長 |