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ダヴィド・ベイカ

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ダヴィド・サムエレヴィチ・ベイカ
Давид Самуэлевич Бейка
Dāvids Beika
生年月日 (1885-08-30) 1885年8月30日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国クールリャント県ロシア語版ドブレン郡ラトビア語版アヌテレス
没年月日 (1946-02-07) 1946年2月7日(60歳没)
(または2月6日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
コミ自治ソビエト社会主義共和国
前職 教師
所属政党ラトビア社会民主労働党ラトビア語版→)
ボリシェヴィキ

在任期間 1924年2月 - 1926年5月29日

全連邦共産党(ボ)アルハンゲリスク県委員会
責任書記
在任期間 1926年7月 - 1927年5月

在任期間 1918年4月12日 - 1920年1月13日
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ダヴィド・サムエレヴィチ(サムイロヴィチ)・ベイカロシア語: Давид Самуэлевич (Самуилович) Бейка1885年8月30日 - 1946年2月7日〈または2月6日〉)、民族名ダーヴィツ・ベイカラトビア語: Dāvids Beika)は、ラトビア人のボリシェヴィキ。別名G・ベルナルツ (G. Bernards)[1]

生涯

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1885年8月30日ユリウス暦18日)、ロシア帝国クールリャント県ロシア語版アヌテレスの労働者階級に生まれた[1]ドブレンラトビア語版教区学校を卒業し、1920年リガのニコライ中等学校に独学で合格した[1]。翌1903年からラトビア社会民主労働党ラトビア語版党員となり[2]1905年までドブレンで教師として働いていたが、ロシア第一革命の間はドブレン郡ラトビア語版トゥックム郡ラトビア語版で「森の兄弟」(ru) に加わった[1]

1907年からアメリカ合衆国に亡命し、現地でもラトビア人社会民主主義組織を指導[3]1917年に帰還し、同年8月にリガ労組中央局議長に就いた[2]。同年には「ラトビア社会民主主義ロシア語版」第5回大会およびロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)第6回大会スペイン語版にも出席し[4]、翌1918年4月12日から1920年1月13日までラトビア社会主義ソビエト共和国産業委員を務めた[2]1919年にはラトビア中央執行委員会幹部会メンバー、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第8回大会ロシア語版[3]ラトビア社会民主主義第6回大会および全ラトビア・ソビエト大会出席者[4]、同年6月3日から1923年までラトビア共産党ロシア語版中央委メンバーとなり、1920年1月から党国外局メンバー、同年3月から国外局副局長を歴任[2]ラトビア赤色軽歩兵隊ロシア語版を指導し、コミンテルンの創設にも関わり[3]、1920年10月からコミンテルン・ラトビア党書記となった[4]。同年から翌1921年まではコミンテルン執行委監督および国際連絡部部長を務める[2]。コミンテルン第2回英語版および第3回大会 (ru) にも出席している[4]

ロシア社会主義連邦ソビエト共和国スモレンスク県1922年から翌1923年までロシア共産党ヴャジマ郡 (ru) 委責任書記、同年から翌1924年までヤールツェヴォ郡委責任書記を務め、同年2月から1926年5月29日まで党スモレンスク県委責任書記を務める[2]。同年7月から翌1927年5月まで党アルハンゲリスク県委責任書記、同年から1932年まで全ロシア生産者協同組合中央委議長を務め、同年から1935年までソビエト連邦重工業人民委員部 (ru) で働いた[2]1936年から翌1937年までは内戦下のスペインで国際旅団委員を務め、同年から翌1938年まではアメリカ合衆国でコミンテルンの活動に従事した[2]

第13回ロシア語版から第16回スペイン語版までの全連邦共産党大会にも出席したが[4]、1938年4月20日にモスクワで逮捕され[1]、翌1939年4月22日に反革命活動の容疑により懲役20年および権利剥奪5年の有罪判決を受けた[2]。その後、1946年2月7日[4](または2月6日)にコミ自治共和国の収容所で死去した[1]。その後、ベイカは1956年2月22日に名誉回復ロシア語版がなされた[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f Dāvids Beika”. Literatūra.lv. 2018年4月6日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ a b c d e f g h i Бейка Давид Самуэлевич (Beika Davids)”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2017年5月26日閲覧。
  3. ^ a b c БЕЙКА Давид Самуилович”. Российская Информационная Сеть. 2018年4月6日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ a b c d e f Бейка // Бари — Браслет. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 3).
  5. ^ Емельянова Н. Г., Мозгунова Г. Н., Баркова А. В., Лышковская И. Н., Виноградова О. В., Пикалова Н. Ф. (2008). Руководители Смоленской области (1917-1991 годы): Биографический справочник (500 экз ed.). Смоленск: Свиток.
党職
先代
ピョートル・ヴィクマン
ロシア共産党(ボ)スモレンスク県委員会責任書記
1925年12月から全連邦共産党
1924年2月 - 1926年5月29日
次代
ダニイル・パヴリュチェンコ
先代
ヴァシリー・クジエフ
代行
全連邦共産党(ボ)アルハンゲリスク県委員会責任書記
1926年7月 - 1927年5月
次代
セルゲイ・ベルガヴィノフ
その他の役職
先代
なし
共産主義インターナショナル執行委員会国際連絡部部長
1920年 - 1921年
次代
オシップ・ピャトニツキー