コンテンツにスキップ

何思源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2021年3月7日 (日) 14:30; SeitenBot (会話 | 投稿記録) による版 (Botによる: {{Normdaten}}を追加)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
何思源
Who's Who in China 4th ed., 1931
プロフィール
出生: 1896年光緒24年)
死去: 1982年4月28日
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 山東省曹州府菏沢県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 何思源
簡体字 何思源
拼音 Hé Sīyuán
ラテン字 Ho Szu-yüan
和名表記: か しげん
発音転記: ホー スーユエン
テンプレートを表示

何 思源(か しげん)は中華民国中華人民共和国の経済学者・社会学者・教育者・政治家。仙槎

事績

[編集]

民国初期の活動

[編集]

1916年民国5年)夏、曹州の山東省立第六中学を卒業し、次いで国立北京大学に進学した。1919年(民国8年)5月、五・四運動に参加している。同年8月、アメリカに留学し、まずシカゴ大学大学院で哲学を学び、まもなくセントルイス大学で政治学を履修している。1922年、シカゴ大学の修士学位を取得し、次いでドイツに転じてベルリン大学で経済学を専攻した。1924年(民国13年)からは東欧諸国を外遊して政治・経済を考察し、さらにパリ大学で教育学を履修している。[1][2]

1925年(民国14年)に帰国すると、中山大学で経済系主任代理兼図書館長となった。[3]この時期に中国国民党にも加入し、同大学では訓育部副主任兼法科主任にも就任している。1928年(民国17年)3月、国民革命軍総司令部政治訓練部主任となり、その翌月には国民政府軍事委員会政治訓練部主任に転じた。また、国民党山東省党務整理委員会委員も務めている。同年5月、山東省政府委員兼教育庁庁長となり、国立青島大学籌備処主任や直魯賑災委員会委員なども務めた。1932年(民国21年)3月、国難会議会員として招聘され、1934年(民国23年)7月には山東省新生活運動促進会幹事会幹事となっている。翌1935年(民国24年)7月、普通考試典試委員会秘書長も務め、1936年(民国25年)11月には国民党中央監察委員候補に選出された。[1][2]

日中戦争以降

[編集]

日中戦争(抗日戦争)最中の1941年(民国30年)7月、魯北行署主任となり、翌年1月には山東省政府秘書長に任ぜられた。同年4月、同省政府民政庁庁長に移り、さらに1944年(民国33年)12月、同省政府主席兼保安司令に昇進している。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央監察委員に当選した。戦後の1946年(民国35年)10月、北平市市長に起用されている。1948年(民国37年)、徐州剿匪総司令部政務委員会常務委員も兼ねたが、同年6月に各職から罷免された。[1][2]

その後、何思源は華北7省市の参議会から中国共産党との和平交渉首席代表に推薦され、北平無血開城に貢献している。中華人民共和国建国後は、中国人民政治協商会議全国委員会委員(第1期から第5期)や中国国民党革命委員会(民革)中央委員会委員などを務めた。1982年4月28日、北京市にて病没。享年87。[1][2]

著作

[編集]
  • 『欧米各国社会の発展』
  • 『近代中国外交史』
  • 『社会科学研究法』
  • 『求生教育と教育保険制度』
  • 『国際経済政策』
  • 『中国人口問題』

[編集]
  1. ^ a b c d 徐主編(2007)、673頁。
  2. ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、1113頁。
  3. ^ 劉国銘主編(2005)、1113頁による。徐主編(2007)、673頁によると1926年帰国。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
牟中珩
山東省政府主席
1944年12月 - 1946年10月
次代
王耀武
先代
熊斌
北平市長
1946年10月 - 1948年6月
次代
劉瑶章