何思源
何思源 | |
---|---|
Who's Who in China 4th ed., 1931 | |
プロフィール | |
出生: | 1896年(清光緒24年) |
死去: |
1982年4月28日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清山東省曹州府菏沢県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 何思源 |
簡体字: | 何思源 |
拼音: | Hé Sīyuán |
ラテン字: | Ho Szu-yüan |
和名表記: | か しげん |
発音転記: | ホー スーユエン |
何 思源(か しげん)は中華民国・中華人民共和国の経済学者・社会学者・教育者・政治家。字は仙槎。
事績
[編集]民国初期の活動
[編集]1916年(民国5年)夏、曹州の山東省立第六中学を卒業し、次いで国立北京大学に進学した。1919年(民国8年)5月、五・四運動に参加している。同年8月、アメリカに留学し、まずシカゴ大学大学院で哲学を学び、まもなくセントルイス大学で政治学を履修している。1922年、シカゴ大学の修士学位を取得し、次いでドイツに転じてベルリン大学で経済学を専攻した。1924年(民国13年)からは東欧諸国を外遊して政治・経済を考察し、さらにパリ大学で教育学を履修している。[1][2]
1925年(民国14年)に帰国すると、中山大学で経済系主任代理兼図書館長となった。[3]この時期に中国国民党にも加入し、同大学では訓育部副主任兼法科主任にも就任している。1928年(民国17年)3月、国民革命軍総司令部政治訓練部主任となり、その翌月には国民政府軍事委員会政治訓練部主任に転じた。また、国民党山東省党務整理委員会委員も務めている。同年5月、山東省政府委員兼教育庁庁長となり、国立青島大学籌備処主任や直魯賑災委員会委員なども務めた。1932年(民国21年)3月、国難会議会員として招聘され、1934年(民国23年)7月には山東省新生活運動促進会幹事会幹事となっている。翌1935年(民国24年)7月、普通考試典試委員会秘書長も務め、1936年(民国25年)11月には国民党中央監察委員候補に選出された。[1][2]
日中戦争以降
[編集]日中戦争(抗日戦争)最中の1941年(民国30年)7月、魯北行署主任となり、翌年1月には山東省政府秘書長に任ぜられた。同年4月、同省政府民政庁庁長に移り、さらに1944年(民国33年)12月、同省政府主席兼保安司令に昇進している。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央監察委員に当選した。戦後の1946年(民国35年)10月、北平市市長に起用されている。1948年(民国37年)、徐州剿匪総司令部政務委員会常務委員も兼ねたが、同年6月に各職から罷免された。[1][2]
その後、何思源は華北7省市の参議会から中国共産党との和平交渉首席代表に推薦され、北平無血開城に貢献している。中華人民共和国建国後は、中国人民政治協商会議全国委員会委員(第1期から第5期)や中国国民党革命委員会(民革)中央委員会委員などを務めた。1982年4月28日、北京市にて病没。享年87。[1][2]
著作
[編集]- 『欧米各国社会の発展』
- 『近代中国外交史』
- 『社会科学研究法』
- 『求生教育と教育保険制度』
- 『国際経済政策』
- 『中国人口問題』
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
|
---|