源雅頼
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 大治2年(1127年) |
死没 | 建久元年8月3日(1190年9月4日) |
別名 | 壬生、猪熊源中納言、綾小路 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 村上源氏顕房流 |
父母 | 父:源雅兼、母:源能俊の娘 |
兄弟 | 雅頼、定房、通能、雅成、雅範、雅綱、季房?、雅隆?、藤原俊盛室 |
妻 | 源盛定の娘、藤原家成の娘、菅原公賢の娘 |
子 | 兼定、兼忠、頼房、範雅、明昌、任雅、定真、聖雅、中院通方室、西園寺公経室 |
源 雅頼(みなもと の まさより)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏顕房流、権中納言・源雅兼の三男。または四男。官位は正二位・権中納言。壬生、猪熊源中納言、綾小路と号す。
経歴
天承元年12月(1132年1月)に大膳亮に任ぜられる。天承2年(1132年)式部少丞を務め、長承2年(1133年)7歳で従五位下に叙爵。
長承4年(1135年)治部大輔に任ぜられる。保延7年(1141年)大輔の功績により従五位上に叙せられ、久安5年(1149年)には正五位下に昇叙。久寿2年(1155年)五位蔵人に補任された。久寿3年(1156年)左近衛少将となり、保元2年(1157年)従四位下・権右中弁に叙任。保元3年(1158年)には左中弁に転じ、装束使を務めた。保元4年(1159年)従四位上・伊勢権守に叙任される。永暦元年(1160年)には正四位下・右大弁に叙任され、二条天皇の蔵人頭に補任された。応保3年(1163年)遠江権守を兼ね、長寛2年(1164年)参議に任ぜられて公卿に列す。
永万元年(1165年)に入って左大弁・勘解由長官を兼帯している。仁安2年(1167年)従三位・備中権守となり、仁安3年(1168年)正三位に叙せられた。仁安4年12月(1170年1月)権中納言に任ぜられる。治承3年(1179年)治承三年の政変の1日後である11月18日に権中納言を辞しているが、解官されたかどうかは不明。治承5年(1181年)従二位に叙せられ、寿永2年(1183年)正二位に至った。源頼朝の近習である中原親能が雅頼の家人で、その妻が次男・兼忠の乳母であったため、治承4年(1180年)に頼朝が蜂起した後は頼朝の意思の伝達者として、京と鎌倉、特に九条兼実との間の仲介をした。文治3年(1187年)、妻の病により出家し、建久元年(1190年)8月3日、薨去。享年64。
有職故実に通じて、多くの文書・日記類を所蔵。『水鏡』の作者にも擬せられている。摂関家の藤原忠通・兼実父子と親交が深く、密接な繋がりがあった。承安3年(1173年)には、兼実と朝議の有職についてを論じている。また、和歌にも長じて、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に七首が入集する。
官歴
※以下、『公卿補任』記載に従う。
- 天承元年(1131年)
- 天承2年(1132年)正月22日:式部少丞に任ず。
- 長承2年(1133年)3月4日:従五位下に叙す(一品禎子内親王給。臨時)。
- 長承4年(1135年)正月28日:治部大輔に任ず。
- 保延7年(1141年)正月7日:従五位上に叙す(大輔労)。
- 久安5年(1149年)3月20日:正五位下に叙す(延勝寺供養。皇太后宮御給)。
- 久寿2年(1155年)8月23日:五位蔵人に補す。
- 久寿3年(1156年)9月17日:左近衛少将に任ず。
- 保元2年(1157年)
- 8月21日:権右中弁に転ず。
- 10月22日:従四位下に叙す(造宮行事)。
- 保元3年(1158年)8月10日:左中弁に転じ、装束使に補す。
- 保元4年(1159年)
- 正月6日:従四位上に叙す(父卿夫天承三年平野大原野行幸行事)。
- 正月29日:伊勢権守を兼ぬ(装束使労)。
- 永暦元年(1160年)
- 4月3日:正四位下に叙す(父卿天承三年平野大原野行幸行事。両度用一賞)。
- 8月24日:斎内親王装束使と為す。
- 10月3日:右大弁に転じ、蔵人頭に補す。
- 応保3年(1163年)正月24日:遠江権守を兼ぬ。
- 長寛2年(1164年)正月21日:参議に任ず。右大弁遠江権守如元。
- 永万元年(1165年)
- 8月17日:左大弁に転ず。
- 10月2日:勘解由長官を兼ぬ(臨時)。
- 仁安2年(1167年)
- 正月30日:備中権守を兼ぬ。
- 2月11日:従三位に叙す(鳥羽院天養三年未給)。
- 仁安3年(1168年)正月11日:正三位に叙す(自閑院遷幸大内本家賞)。
- 仁安4年(1169年)/嘉応元年
- 正月13日:服解(母)。
- 5月11日:復任。
- 12月30日(1170年1月18日):権中納言に任ず。
- 治承3年(1179年)11月18日:権中納言を辞す。
- 治承4年(1180年)正月:本座出仕を聴す。
- 治承5年(1181年)正月5日:従二位に叙す(臨時)。
- 寿永2年(1183年)2月21日:正二位に叙す(行幸院賞。別当)。
- 文治3年(1187年)7月5日:出家。
系譜
- 父:源雅兼
- 母:源能俊の娘
- 妻:太皇太后宮少進源盛定の娘[1]
- 長男:源兼定(1149-1216)
- 妻:藤原家成の娘
- 次男:源兼忠(1161-1209)
- 妻:菅原公賢の娘
- 三男:源頼房
- 生母不明の子女