龍驤 (コルベット)
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艦歴 | |
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建造 | アバディーン造船所 |
起工 | |
進水 | 1864年 |
竣工 | 1869年4月27日 |
除籍 | 1893年12月2日 |
その後 | 砲術練習艦として使用 1908年売却 |
要目[1] | |
排水量 | 常備:1,429トン |
全長 | 65m(垂線間長) |
全幅 | 10.5m |
吃水 | 5.3m |
機関 | レシプロ機関1基1軸推進 |
最大出力 | 800ihp |
燃料 | 石炭 350t |
速力 | 9.0ノット |
乗員 | 275名 |
装甲 | 114mm(水線部装甲帯) 100mm(装甲砲郭部) |
兵装 | 16.5cm単装砲2基2門 14cm単装砲10基10門 |
龍驤(りゅうじょう)は、日本海軍の軍艦で装甲コルベットに類別された。熊本藩から明治新政府に献上され、装甲艦扶桑の就役まで日本海軍の旗艦としての役割を果たし、明治5年には明治天皇の座乗艦として西国巡幸に使われた。佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に従軍した。
艦歴
慶応元年(1865年)に熊本藩藩主の命によりイギリス・アバディーンで建造、明治2年(1869年)7月24日に竣工[2]した汽帆併用の3檣シップ型コルベット。木造船体であるが舷側に114mmの鉄製装甲帯をもっていた。
明治3年(1870年)3月に長崎に回航され熊本藩が購入、「龍驤(りょうしょう)」と命名、後に呼称は「りゅうじょう」と変化した。4月12日に明治政府に献上され5月8日に品川沖で領収[3]、兵部省所管となった。明治5年(1872年)の海軍省発足によりそのまま海軍艦艇となった。
明治4年(1871年)から翌年に明治天皇が横須賀、品川沖などで海軍天覧したさいに何度か御召艦となった[4]。
1874年(明治7年)の佐賀の乱、征台の役に参加、1877年(明治10年)の西南戦争では鹿児島攻略に参加した。同年10月26日には暴風のため鹿児島で座州、翌年に離州し1879年(明治12年)まで横須賀造船所で修理を行った。
少尉候補生を乗せた遠洋練習航海には3回従事した。明治14年(1881年)度では海兵8期35名を乗せて2月2日に品川を出航、シドニー、メルボルン、タスマニアを経て7月28日横浜に帰着した。同16年(1883年)度では10期27名を乗せて前年の12月27日に品川を出航、ウェリントン、バルパライソ、カヤオ、ホノルルを経て9月15日品川に帰着した。このときは初めての南米への遠洋航海であったが、乗員の多くが脚気となり、その後の糧食改善のきっかけとなった[5]。3回目は同20年(1887年)度で13期37名を乗せて2月1日に品川を出航、シンガポール、バタビア、アデレード、メルボルン、シドニー、オークランドを経て9月11日品川に帰着した。またこの間1885年(明治18年)の京城事変では朝鮮方面に出勤した。
1888年(明治21年)に機関が撤去され、係留されたまま砲術練習艦として使用された。1893年(明治26年)12月2日除籍。その後も横須賀の砲術練習所(海軍砲術学校の前身)で使用された。1896年(明治29年)4月1日雑役船に編入、1908年(明治41年)に売却された。
履歴
- 1864年 - 進水
- 1869年4月27日 - イギリスのアバディーン造船場で竣工
- 1870年5月10日 - 熊本藩から新政府に献上
- 1877年10月26日 - 鹿児島で暴風のため座礁
- 1893年12月2日 - 除籍。練習艦として使用。
- 1908年 - 解体
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- (指揮役)瀧野直俊 二等士官:明治3年(1870年)12月 - 明治4年(1871年)5月
- 伊東祐麿 少佐:明治 4年(1871年)3月 - 1871年6月25日
- 相浦紀道 少佐:1872年7月24日 - 1873年3月15日
- 福島敬典 中佐:1873年3月3日 - 1882年7月7日
- 伊東祐亨 大佐:1882年7月7日 - 1883年12月15日
- 山崎景則 中佐:1883年12月15日 - 1884年2月8日
- 国友次郎 中佐:1884年2月8日 - 1885年11月7日[6]
- 瀧野直俊 中佐:1885年11月7日 - 1886年5月10日
- 吉島辰寧 大佐:1886年11月22日 - 1887年10月8日
- 木藤貞良 大佐:1887年10月27日[7] -
- 佐藤鎮雄 大佐:1890年5月13日 - 1891年6月17日
- 横尾道昱 大佐:1891年8月28日 - 1892年6月3日
- 日高壮之丞 大佐:1892年6月3日 - 1893年12月2日
脚注
- ^ 『世界の艦船』によると排水量2,571トン、長さ64.5m、幅12.5m、喫水6m、横置直動2気筒レシプロ、1軸、800馬力。速力6ノット。64ポンド・クルップ砲6門ほか。『日本近世造船史』によると長さ211ft(64.3m)、幅41ft(12.5m)、排水量2,530トン、800馬力。『日本海軍史』によると長さ65.9m、幅12.8m、排水量2,530トン、800馬力。
- ^ 『日本海軍史』第7巻による。『世界の艦船 日本軍艦史』によると明治3年(1870年)竣工。
- ^ 『日本海軍史』第7巻による。『日本近世造船史』によると翌年の明治4年(1871年)5月に献上、領収。
- ^ 『日本海軍全艦艇史』1244頁。
- ^ 『竜驤艦脚気病調査書』海軍省、1885年2月。
- ^ 『官報』第709号、明治18年11月10日。
- ^ 『官報』第1301号、明治20年10月28日。
参考文献
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/RyujoAndHorse.jpg/220px-RyujoAndHorse.jpg)
- 『世界の艦船 増刊第44集 日本軍艦史』海人社、1995年8月号増刊、第500集。
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第11巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 熊本城 - 艦首および艦尾の装飾彫刻が展示されている。