鹿我別

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鹿我別
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 鹿我別命、巫別、巫別命、賀我別命、賀我別王
官位 浮田国造
主君 成務天皇神功皇后応神天皇
氏族 上毛野君下毛野君同族、吉弥侯部
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鹿我別(かがわけ[1]生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古墳時代豪族で初代浮田国造上毛野君吉弥侯部の遠祖で、神功皇后の時に朝鮮へ派遣されたという武将である。応神天皇年間に派遣された「巫別(かんなぎわけ、かがわけ)」は同一人物とされる[1]鹿我別命賀我別王とも。

記録[編集]

日本書紀神功皇后49年3月条によると、荒田別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。神功皇后50年2月条、帰国した旨が記される。

同書応神天皇15年8月条では、巫別が荒田別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この「巫別」は鹿我別と同一人物とされる[1]。この条において、荒田別・巫別は「上毛野君の祖」と記載されている。

先代旧事本紀』「国造本紀浮田国造条では、成務天皇年間に崇神天皇五世孫の「賀我別王」が国造に任じられたと記載されている。

なお鹿我別の名は、『住吉大社神代記』でも新羅征討の説話において記載されている。

考証[編集]

鹿我別の存在については、『日本書紀』や各種系図、『百済記』を原資料とする実在の人物であるのか、後世に追記された伝説上の人物であるか、説が分かれている[1]

「かが」の読みから、下野国足利郡(現・栃木県足利市周辺)と関連づける説がある[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 鹿我別(古代氏族) & 2010年.
  2. ^ 『日本地理志料』に記載(『毛野国の研究 古墳時代の解明 下』第三章四節より)。また、鹿我別は地名「足利」の由来の一説とされている(足利の地名の由来を知りたい。(栃木県立足利図書館回答)(レファレンス協同データベース))。

参考文献[編集]

  • 「鹿我別」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 

関連項目[編集]