鶴彬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本プロレタリア文学の影響を強く受けた代表的な[誰によって?]反戦川柳作家石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している[1]。また、その死の唐突さのため、官憲による赤痢菌注射説が噂されたと指摘している。具体的な出典は述べられていない[2][3]

来歴[編集]

  • 1908年(明治41年)12月(戸籍上は1909年1月1日) 竹細工職人喜多松太郎と、その妻スズ(寿ず)のもとに次男として生まれる。生後すぐ、機屋を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となる。
  • 1917年(大正6年) 父死去。母の再婚・上京のため、兄、弟妹らも養子となる。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿。
  • 1921年(大正10年) 尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれ断念、高等科に進学。近所の川柳家、岡田太一(澄水)に川柳の指導をうけ、句作をはじめる。
  • 1924年(大正13年) ペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品発表。
  • 1925年(大正14年) 専門学校入学者資格検定試験に合格するも進学かなわず。田中五呂八の指導のもと、川柳雑誌『影像』『氷原』に作品発表。
  • 1926年(大正15年)養父経営の工場が閉鎖していたため、いとこを頼って大阪で工場労働者として1年はたらき、高松町に帰郷。このころ森田一二の影響をうけて、プロレタリア川柳へと傾斜。『氷原』『影像』など、川柳誌で続々とボイコットの対象となって、発表の場をせばめられる。
  • 1927年(昭和2年) 上京して、井上剣花坊・井上信子に師事。活動の軸を『川柳人』にシフト。
  • 1928年(昭和3年) 高松町に帰郷。「高松川柳会」を設立し、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部結成。高松川柳会への弾圧で喜多一二ら4名検束される。筆名を「山下 秀」、さらに「鶴 彬」と。
  • 1930年(昭和5年) 徴兵検査で甲種合格、第9師団歩兵第7連隊金沢)に入隊するが、陸軍記念日の「質問」などにより重営倉[4]
  • 1931年(昭和6年) 『無産青年』所持等により、いわゆる七連隊赤化事件の主犯とされ、治安維持法違反で大阪衛戍監獄に収監、刑期1年8か月。
  • 1935年(昭和10年)10月 上京。
  • 1937年(昭和12年) 東京深川の木材通信社に就職。12月作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置される。
  • 1938年(昭和13年)8月 野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院、死去。

著書[編集]

  • 木村哲也編『現代仮名遣い版 鶴彬全川柳 手と足をもいだ丸太にしてかえし』(邑書林 2007年、ISBN:978-4-89709-585-1)

、ISBN:978-4-88900-810-4)

  • 一叩人編『鶴彬全集』(初版:たいまつ社 1977年、増補改訂復刻版復刻責任者=澤地久枝、1998年)
  • 一叩人編『反戦川柳人・鶴彬―作品と時代』(たいまつ社 1978年)
  • 『鶴彬の川柳と叫び』尾藤一泉編 新葉館ブックス 2009
  • 松倉米吉富田木歩・鶴彬』小沢信男編 EDI叢書 2002
  • 鶴彬句集  岡田一と編 和川柳社1987年9月14日

参考文献[編集]

  • 深井一郎『反戦 川柳作家 鶴彬』(日本機関紙出版センター 1998年

映画[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 佐高信 『佐高信の斬人斬書』 徳間文庫 [さ-10-7] ISBN 4198901236、19p
  2. ^ 佐高信 『日本に異議あり』 講談社文庫 [さ-33-13] ISBN 4062057921、15p
  3. ^ 佐高信 『タレント文化人200人斬り 上 日本をダメにする100人河出文庫 [さ-33-1] ISBN 978-4309413808、38p
  4. ^ 飯田則夫 『ヴィジュアル新書 大日本帝国の戦争遺跡』 ベスト新書 479 ISBN 978-4584124796、116p