高橋興光
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文亀3年(1503年) |
死没 | 享禄2年11月21日(1529年12月21日) |
別名 | 通称:大九郎 |
墓所 | 藤掛城跡(島根県邑智郡邑南町木須田) |
主君 | 大内義興→尼子経久 |
氏族 | 石見高橋氏 |
父母 | 父:高橋弘厚 |
高橋 興光(たかはし おきみつ)は、戦国時代の武将。安芸国・石見国国人である石見高橋氏の当主。高橋久光の次男である高橋弘厚の子とされるが、高橋氏の系図については異説も多く、以下の記述も確定的なものではない。
生涯
[編集]文亀3年(1503年)、高橋弘厚の子として生まれたとされる。
永正12年(1515年)、高橋氏の当主であった伯父・高橋元光の戦死により、祖父・久光の後見を受けて家督を相続する。父に倣い、大内義興から偏諱を貰って興光と名乗ったが、これは安芸国人一揆の結束を弱め、大内氏による安芸への影響力が再び強まる一因となった。
近隣の国人である毛利氏の当主・毛利興元に叔母(伯母)が嫁いで嫡男の毛利幸松丸が生まれており、毛利氏とは友好関係にあった。永正13年(1516年)に毛利興元が死去し、幸松丸の家督相続を機に外戚として毛利氏に干渉したが、幸松丸の外祖父として権力を振るった久光は永正18年(1521年)に戦死した。
毛利幸松丸を後見し、大永3年(1523年)7月15日の幸松丸死去によって毛利氏の家督を相続した毛利元就は、次第に高橋氏と敵対するようになり、享禄元年(1528年)12月21日、父・弘厚[1]が在城した安芸国高宮郡の松尾城が大内方の毛利元就、和智豊郷、弘中隆兼の軍に攻撃され、翌享禄2年(1529年)5月2日に落城した。
興光は石見国邑智郡阿須那の藤根城に籠城し、尼子経久の三男である塩冶興久に援兵を要請したが、毛利元就は興光の叔父[2]である高橋盛光をそそのかして興光を自刃に追い込み、それに乗じて高橋氏の領地を併呑した。これにより石見高橋氏は滅亡した。なお、盛光も主君殺しを理由に直後に元就に殺害されている。
なお、元光や久光の戦死についても、興光の最期と類似したエピソードが伝わっており、どこかで伝承に混乱があったと推察される。また、高橋氏の滅亡時期について、享禄3年(1530年)5月が正しいとする説も出されており[3][4]、それに対する反論[5]も含めて議論がされている。
ちなみに、同じく元就に滅ぼされた本城常光は高橋氏の一族だという。
脚注
[編集]- ^ 一説に弘厚の弟である高橋重光とも。
- ^ 従兄弟、義兄弟とも。
- ^ 秋山伸隆「高橋氏の滅亡時期をめぐって」『令和元年度企画展 芸石国人高橋一族の興亡 展示図録』、安芸高田市歴史民俗博物館、2020年。/所収:村井良介 編『毛利元就』戎光祥出版〈中世西国武士の研究 8〉、2024年10月、87-96頁。ISBN 978-4-86403-548-4。
- ^ 秋山伸隆「家督相続後の毛利元就-高橋氏の滅亡時期をめぐって(再論)-」『毛利氏×郡山城-元就生涯の城 展示図録』、安芸高田市歴史民俗博物館、2023年。
- ^ 岸田裕之「大内義興の死と備芸石の動乱-享禄二年の安芸松尾城の高橋氏攻めと毛利元就-」『大内と幕府 毛利と織田 境目地域の領主連合』清文堂出版、2023年。