風納土城

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風納土城
(文化財指定名称:ソウル風納洞土城)
風納土城 土塁
風納土城の位置(大韓民国内)
風納土城
風納土城
風納土城の位置(ソウル特別市内)
風納土城
風納土城
各種表記
ハングル 서울풍납동토성
漢字 서울風納洞土城
発音 ソウ プンナトン トソン
ローマ字 Seoul Pungnap-dong Toseong
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風納土城(ふうのうどじょう/プンナットソン)は、大韓民国(韓国)ソウル特別市松坡区風納洞にある三国時代百済前期の都城遺跡大韓民国指定史跡第11号に指定されている(指定名称は「서울풍납동토성(서울風納洞土城)」)[1]

概要[編集]

朝鮮半島中央部、ソウル特別市南東部の漢江東岸に位置する土城の遺構である。南北に長い長方形状をなし、規模は南北約1.5キロメートル、東西約0.3キロメートル、総延長約3.5キロメートルである[2]。土城として朝鮮半島最大規模である[2]。西壁の大部分は漢江の洪水で消失している[2]。土塁は2段築成で、基底部幅は約30メートル、高さは5メートルほどある[2]1997年から数度の発掘調査が行われている[2]

発掘調査によると、土城築造以前の紀元前1世紀から紀元後3世紀中頃(原三国時代)、土城域には3重環濠集落竪穴建物が存在していた[2]。その後、土城は遅くとも3世紀前後には完成しており、三国時代百済前期を通じて使用された[2]。百済時代のものとしては、祭祀に関係する大型建物の遺構や、竪穴建物等の多数の遺構が見つかったほか、大量の百済土器・瓦・鉄器、中国南朝の陶磁器が出土している[2]。こうした調査結果から、風納土城を中心として南方の夢村土城とともに百済の漢山城(河南慰礼城475年陥落)を構成したとする説が有力視されている[2][3]。周囲には百済王陵と見られる石村洞古墳群がある。

百済は、4世紀中頃までは、漢城王都をおいており、このときの王城とみられているのが、漢江南岸に築かれた風納土城である。風納土城が、「土城」とよばれているのは、周囲3.5キロメートルほどの長方形の土塁に囲まれているからであるが、城を長方形の城壁で囲む形は、中国王朝が採用していたものであるため、この風納土城も、もともとは帯方郡に属した県城の一つとみられている[4]高句麗の帯方郡征圧後、高句麗の属城となり、やがて高句麗からの自立を図った百済の王城となったとみられる[4]。かつては帯方郡郡衙に比定する説もあったが、これに関連すると思われる遺構は見つかっていない[2]

遺構は、1963年1月21日に「広州風納里土城」として大韓民国指定史跡第11号に指定された[1]。その後2011年7月28日、指定名称は「ソウル風納洞土城」に変更されている[1]

ギャラリー[編集]

現地情報[編集]

交通アクセス
周辺
  • 漢城百済博物館
  • 夢村土城 - 百済前期の都城推定地の1つ。
  • 石村洞古墳群 - 百済時代の古墳群。
  • 可楽洞古墳群 - 百済時代の古墳群。
  • 芳荑洞古墳群 - 百済時代とする説があったが、現在は6世紀後半以降の新羅時代古墳と推測される。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 서울 풍납동 토성(서울 風納洞 土城)(大韓民国文化財庁)(朝鮮語)
  2. ^ a b c d e f g h i j 風納土城(東アジア) 2007.
  3. ^ 韓国考古学会 編『概説 韓国考古学』同成社、2013年9月25日、259-260頁。ISBN 4886216390 
  4. ^ a b 小和田泰経『朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争』新紀元社、2012年7月24日、45-46頁。ISBN 4775310518 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯37度32分4.55秒 東経127度6分57.29秒 / 北緯37.5345972度 東経127.1159139度 / 37.5345972; 127.1159139 (風納土城)