陳守度

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陳守度(ちん しゅど、チャン・トゥ・ド、Trần Thủ Độ, 1193年 - 1264年)は、ベトナムを支配した陳朝の実質的な創始者。統国太師に封じられた。

概要[編集]

一族の陳嗣慶と図って李朝の第8代皇帝恵宗に嗣慶の姉妹(後の霊慈国母)を娶わせ、自身は外戚として大いに権力を振るった。1224年には恵宗を廃し、その7歳の次女である昭皇を即位させて李朝を完全に乗っ取った。翌1225年には恵宗を自殺に追い込んだ上で、自分の甥[1]に当たる太宗を李昭皇と結婚させて、皇位を陳氏のものとしたのである。この時、李昭皇とその姉以外の李氏一族は、陳守度によって全員殺害されている。また、未亡人となった恵宗の后・霊慈国母(太宗のおばにあたる)を妻に迎えた。その後、太師の地位に就き、1234年には統国太師の称号を授けられ、1237年には太宗の実兄である陳柳と権力を争いこれを失脚させた。

陳守度が李朝を簒奪したこと、またその後恵宗の后をめとったことなどの振る舞いに対して、後世の史家は厳しい批判を加えているが、一方での勃興を前にして国政の安定をもたらした点を評価する見方もある[誰によって?]

また、陳守度と陳朝建国との関連について、恵宗を迎えて太尉に任ぜられた陳嗣慶[2]や太祖とされた陳承(太宗の実父・陳嗣慶の兄)やその長男・陳柳の役割が過小評価されて陳守度の役割が過大に見られているとする批判がある[3]

脚注[編集]

  1. ^ 通説では陳守度は太宗と「叔父」とされているが、『大越史記全書』には彼を「叔父」と「従叔(親の従兄弟)」とする記述が混在している(桃木、2011年、P272)。
  2. ^ 陳嗣慶は1223年に没する前は陳氏一族の当主であり、陳朝成立後に「建国(大)王」の称号が贈られており、陳氏の全国平定を実現させ王朝の基礎を築いたのは陳嗣慶とする説がある(桃木、2011年、P209-210・301-302。
  3. ^ 桃木、2011年、P287-290・301-302

参考文献[編集]

  • 桃木至朗『中世大越国家の成立と変容』(大阪大学出版会、2011年) ISBN 978-4-87259-381-5

関連項目[編集]