鈴木房重

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鈴木 房重 Portal:陸上競技
Fusashige Suzuki 1936.jpg
1936年
選手情報
愛称 箱根の職人
宮ノ下の勇者[1]
国籍 日本の旗 日本
競技 長距離走
種目 駅伝・マラソン・10000m
大学 日本大学
生年月日 (1914-02-15) 1914年2月15日
没年月日 (1945-06-03) 1945年6月3日(31歳没)
死没地 南シナ海
身長 162cm
体重 54kg
コーチ 佐藤秀三郎
オリンピック ベルリン五輪男子10000m(記録不明)
自己ベスト
10000m 33分10秒0
マラソン 2時間33分05秒
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鈴木 房重(すずき ふさしげ、1914年2月15日 - 1945年6月3日)は日本の陸上競技選手。専門は長距離走ベルリンオリンピック男子長距離日本代表。身長162cm、体重54kg[2]

経歴[編集]

日本大学在学時の1935年(昭和10年)から6年連続5区の走者として箱根駅伝に出場。2年時から3年連続区間賞を獲得するなど活躍し、第16回大会(1935年)からの日本大学4連覇、第21回大会を含めて5度の総合優勝に貢献した。同時期の箱根駅伝において活躍した選手に、村社講平中村清らがいる。

「1935年3月31日、東京・神宮周辺にて開催されたマラソン大会において孫基禎に次ぐ2位となり、当時の世界最高記録を上回る2時間27分49秒の記録を残した」とされる[3]。しかし、実際にこのマラソン大会(神宮新コースマラソン)が開催されたのは3月21日で、このコースは日本陸上競技連盟による正式計測を受けていない非公認コースであった[4]。それ故、日本陸上競技連盟の道路日本(最高)記録にもなっていない[5]。この記録がのちに「3月31日の公認世界記録」とされたことにはスポーツライターの武田薫も疑問を呈している[6]

4月3日、オリンピック候補対抗のマラソンに出場し2時間33分05秒を記録し、世界最高記録を樹立した池中康雄に次ぐ2位に入った[7]。3位は孫であった。

その後、1936年ベルリンオリンピックマラソンの日本代表となる。このとき、選考レースの記録が低調だったことから代表候補が出場枠の3人に絞り込まれず、鈴木のほか、孫基禎・南昇龍塩飽玉男の4人を候補に選び、ベルリンの現地で直前予選をおこなって代表を決めることになった。マラソン代表は本番から1ヶ月以上前の6月17日にベルリン入りしてトレーニングに入ったが、鈴木はその1週間後に高熱を発して10日ほど入院し、それで体調をすっかり崩してしまう[8]。7月22日の現地予選(30km)では途中棄権に終わり、マラソン代表の選から漏れて急遽10000mに回ることになった[9]。マラソンコーチを務めた佐藤秀三郎によると、鈴木は食事や気候の変化に弱く、育ちのよさと真面目さが目立ちすぎたという[10]。10000mに村社と共にエントリーしたが記録は残っていない[2][11]大日本体育協会によるベルリン五輪の公式報告書の10000m競走の項目には「マラソンの出場にもれた鈴木は不馴なトラック競技によく健闘したと云えよう」と記されている[12]。『日本陸上競技連盟七十年史』によると、栃木陸上競技協会のオリンピック代表選手としてその名が残されている[13]

終戦間近の1945年6月3日南シナ海にて戦死。31歳没[14]

記録[編集]

  • 10000m - 33分10秒0(1939年10月 東京)
  • マラソン - 2時間33分05秒(1935年4月 東京)

脚注[編集]

  1. ^ 日大、史上初4連覇と、伝説の「箱根の職人・宮ノ下の勇者」日本大学 2016箱根駅伝ガイドブック
  2. ^ a b Sports-Reference.com
  3. ^ 12th IAAF World Championships In Athletics - IAAF Statistics Handbook Berlin 2009 IAAF. 2010年7月20日閲覧。
  4. ^ 『日章旗とマラソン』p.24 - 26。このマラソンが3月21日に開催されたことは当時の新聞の縮刷版(読売新聞)でも確認できる。
  5. ^ 出口庸介編「マラソン・データバンク」(マラソン道路最高記録の変遷)『陸上競技マガジン』1990年3月号、ベースボール・マガジン社、p.171。後述の池中康雄の前の記録は、楠好蔵(坂出青年団)が1933年11月3日の日本選手権で樹立した2時間31分10秒となっている。
  6. ^ 武田薫(2008-12-09). (2)日大…幻の五輪代表と初の4連覇(1935~38年、16~19回大会) YOMIURIONLINE. 2010年7月20日閲覧。
  7. ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.686.
  8. ^ 『日章旗とマラソン』p.251 - 254。朝鮮半島出身の孫と南は「選手団の役員は二人のうちどちらかを落とすつもりでいる」と後からベルリンに向かっていた走り幅跳び代表の朝隈善郎から電報で伝えられ、実力で残るためにハードな練習をコーチに提案した。鈴木が発熱したのはその初日の夜だった。
  9. ^ 『日章旗とマラソン』p.263 - 264
  10. ^ 『日章旗とマラソン』p.310
  11. ^ 『日章旗とマラソン』では、出場したものの13周目から遅れ、「トップから一周後れでゴールインした」とある(p.293)。レースを報じた朝日新聞記事(1936年8月3日付)には「鈴木は次第に遅れ」との記述があるが、ゴールの有無や結果については記載されていない。
  12. ^ 大日本体育協会『第11回オリンピック大会報告書』p.51。この報告書では陸上競技の結果については入賞(6位)以上しか記載されておらず、ここでも鈴木のレース結果は不明である。
  13. ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.59.
  14. ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.176.

参考文献[編集]

参考資料・外部リンク[編集]