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趙文淵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 文淵[1](ちょう ぶんえん、生没年不詳)は、中国北魏末から北周にかけての書家官僚は徳本。本貫南陽郡宛県

経歴

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北魏の尚薬典御の趙遐の子として生まれた。幼い頃から楷書隷書を学び、11歳で皇帝に書を献上した。西魏が建国されると、大丞相府法曹参軍に任じられた。文淵の書法は鍾繇王羲之に倣ったもので、筆勢に見るべきものがあった。当時の西魏の石碑や掲示は、文淵と冀儁の書によるものばかりであった。544年大統10年)[2]、白石県男に封じられた。宇文泰の命を受けて、黎景熙や沈遐らとともに『説文解字』と『字林』の六字体版を校定して刊行した。

554年恭帝元年)に于謹らが江陵を攻め落とし、王褒関中に入ると、西魏の貴族たちはこぞって王褒の書を学ぶようになり、文淵の書は顧みられなくなった。文淵はこのことを恨んで、言動の端々にも表れた。後に自分も王褒の書を真似ようとしたが、上手く行かず、批判にさらされた。石碑や掲示の書については、なおも余人の及ぶところではなく、王褒もまた文淵を推していた。当時の宮殿楼閣の扁額はみな文淵の手に成るものであった。県伯下大夫に任じられ、儀同三司の位を加えられた。北周の明帝の命により江陵を訪れて、景福寺碑を書いた。後梁蕭詧に書の美しさを認められて、厚遇を受けた。566年天和元年)、皇帝の政務の場である露寝が落成すると、文淵がその扁額を書き、その功績により200戸の増封を受けて、趙興郡太守に任じられた。文淵は外任にあっても、扁額や掲示を書く仕事が回された。後に病没した。

脚注

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  1. ^ 周書』および『北史』では、代の避諱により名を文深と書かれる。唐の高祖李淵の諱に触れるのを避けるためである。
  2. ^ 『周書』による。『北史』は546年(大統12年)とする。

伝記資料

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  • 『周書』巻47 列伝第39
  • 『北史』巻82 列伝第70