西角友宏
にしかど ともひろ 西角 友宏 | |
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生誕 | 1944年3月31日(79歳)![]() |
国籍 | ![]() |
教育 | 学士 |
出身校 | 東京電機大学工学部 |
職業 | ゲームクリエイター |
活動期間 | 1969年 - |
代表作 | 『スピードレース』 『ウエスタンガン』 『スペースインベーダー』 『ルナレスキュー』 『バルーンボンバー』 |
西角 友宏(にしかど ともひろ、1944年3月31日 - )は、日本のゲームデザイナー・ゲームクリエイター。株式会社タイトー アミューズメント開発部アドバイザー[1]。株式会社ドリームス創業者・元会長。
『スペースインベーダー』の生みの親として知られる。
経歴[編集]
大阪府岸和田市出身。東京電機大学工学部電気通信工学科卒業後、音響メーカーに就職。後に1969年にタイトーの子会社であるパシフィック工業に入社、さらにタイトーに移籍している。
元々、エレメカのエンジニアを務めていたが、『ポン』やCPUの存在を知った時「これからはゲームの度に部品を全て作り直すのでなく、集積回路のデータを書き換えるだけで、ゲームバランスの調整や新ゲームの作成が楽になる」というメリットを見抜いており、日本のアーケードビデオゲーム黎明期において、後述する傑作を何作も手がけた。
1996年退社、非常勤技術顧問を2年間務めると共に、有限会社ドリームスを設立。代表取締役のち会長を務めたのち退社。2016年現在はタイトーのアミューズメント開発部アドバイザーを務める。
主なゲーム[編集]
- スカイファイター(1970年、エレメカ)
- スカイファイターII(1971年、エレメカ)
- これはビデオゲームでなくエレメカ。幻灯機機能を使い、映える青空が表現されていた。
- サッカー(1973年、AC)
- アタリの『ポン』をヒントに開発。サッカーゲームと言うよりまだ『ポン』の亜流だった。日本人が開発したアーケードビデオゲームとしては、日本初とされている。
- デビスカップ(1973年、AC)
- スピードレースシリーズ(1974年、AC)
- ウエスタンガン(1975年、AC)
- インターセプター(1976年、AC)
- フィスコ400(1977年、AC)
- スペースインベーダー(1978年、AC)
- インベーダーブーム後のROM交換による新作ゲームも、西角が担当している。
一部のゲームは今もタイトーで保有されており、かつては「テレビゲームとデジタル科学展」など歴史展示系イベントの他、ゲームセンターHeyや、横濱はじめて物語にも設置された事があった。
関連文献[編集]
- FLORENT GORGES『スペースインベーダーを創った男 西角友宏に聞く』徳間書店、2018年、ISBN 978-4198645793
- 一橋大学イノベーション研究センター及び立命館大学ゲーム研究センターによるオーラルヒストリー(聞き手:生稲史彦、井上明人、江藤 学、福田一史、金東勲、木村 めぐみ、中村 彰憲、鴫原 盛之、清水洋、山口 翔太郎)
- 西角友宏第1回インタビュー前半:中学時代までの生い立ち. 2018.
- 西角友宏第1回インタビュー後半:高校時代からパシフィック工業への入社まで. 2018.
- 西角友宏第2回インタビュー前半:「スカイファイター」の開発. 2018.
- 西角友宏第2回インタビュー後半:メカゲームからビデオゲームへ. 2018.
- 西角友宏第3回インタビュー前半:「スペースインベーダー」開発の経緯. 2018.
- 西角友宏第3回インタビュー後半:「スペースインベーダー」のゲームデザインとマーケティング. 2018.
- 西角友宏第4回インタビュー前半:その後のゲーム開発. 2018.
- 西角友宏第4回インタビュー後半:コンシューマーゲームの開発と未来のゲームへの展望. 2018.
脚注[編集]
- ^ “西角 友宏|ゲスト|Retro Game À La Carte(レトロゲームアラカルト)”. 2016年5月31日閲覧。