西川恒山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西川 恒山
時代 江戸時代中期
生誕 享保20年(1735年
死没 文化2年9月16日1805年11月6日
別名 藤兵衛(通称)、邦実(名)、士亮(字)、蘭門(号)[1]
墓所 大安寺
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
氏族 西川氏
父母 西川敦救、西川長右衛門娘
仁木門右衛門娘
西川明雅
テンプレートを表示

西川 恒山(にしかわ こうざん)は江戸時代中期の佐渡奉行所地役人。両津にある村雨の松の植樹者。

経歴[編集]

両津郵便局 右端に見えるのが村雨の松。

延享2年(1745年)佐渡奉行所定床屋番役となり、切米20俵・3人扶持を受けた[2]宝暦2年(1752年)夷湊番所役、宝暦3年(1753年)代官支配、宝暦12年(1762年)夷湊番所定番役、明和5年(1768年)佐渡奉行支配[2]

長年夷で閑職に甘じていた間、鈴木北湖の詩社で鈴木逸甫鈴木金峰中山漸廬藤沢子山等と詩文を研鑽した[1]。また、番所裏手に漁師等の目印となるよう[2]クロマツを植えたところ、後世大きく成長し、明治34年(1901年)尾崎紅葉により「村雨の松」と命名され、昭和31年(1956年)3月23日新潟県天然記念物に指定された[3]

明和7年(1770年)山方役に転じた[2]安永4年(1775年)1月前年分地方・銀山方勘定仕上げのため江戸勤務を命じられ、7月赴任し、安永5年(1776年)8月帰郷した[2]天明元年(1781年)にも同じく江戸に勤務し、天明2年(1782年)8月帰郷した[2]龍草廬片山兼山に漢詩の添削を受けた[1]

天明3年(1783年)公事方役、寛政3年(1791年)与力格広間役、文化元年(1804年)金蔵定番役、20人扶持[2]。文化2年(1805年)老衰のため退職し、9月16日(11日とも)71歳で病死し[2]、大安寺に葬られた[1]

先祖[編集]

  1. 西川長右衛門
    藤兵衛とも。伊勢国に生まれ、九鬼守隆に仕え、元和4年(1618年)佐渡奉行所地役人となった。寛永16年(1639年)11月2日没[2]
  2. 西川藤兵衛
    承応2年(1653年)出仕し、隠居後休我と号し、元禄13年(1700年)3月5日没[2]
  3. 西川長右衛門
    母は内藤治郎右衛門娘。元禄元年(1688年)出仕し、正徳3年(1713年)隠居し、正徳4年(1714年)6月2日没[2]
  4. 西川長右衛門広明
    仙田八兵衛と安岡肥前娘の子。初名は儀太夫。正徳3年(1713年)出仕し、享保9年(1724年)4月1日目付役、享保13年(1728年)3月18日吟味方役。享保16年(1731年)4月29日隠居し、享保17年(1732年)7月7日57歳で死去[2]
  5. 西川儀太夫敦救
    鳥井嘉右衛門と矢渡藤右衛門娘の子。享保16年(1731年)出仕し、延享2年(1745年)12月2日没[2]

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 荻野 1927, p. 75.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 荻野 1927, pp. 76–77.
  3. ^ 新潟県指定 記念物 村雨のマツ”. 佐渡の文化財. 新潟県佐渡市. 2017年11月28日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]