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襄公 (単)

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襄公
王朝

襄公(じょうこう)は、春秋時代の君主。

生涯

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成公元年(紀元前590年)春、景公は瑕嘉を派遣し、と和平するようにした。周は単の襄公を派遣した晋へ礼を述べた。

魯の成公二年(紀元前589年)、晋の景公は鞏朔(士荘伯)を周王室に派遣し、との鞍の戦い中国語版の勝報を伝えた。周の定王は会わなかった、単の襄公は周の定王に代わって拒否し、曰く「王命伐蛮夷戎狄、則有献捷。王命伐兄弟甥舅、告事而已、不献其功(天子称同姓諸侯晋侯為叔父、称異姓諸侯斉侯為舅父)」。

魯の成公十一年(紀元前580年)秋、晋の郤至は周王室と鄇(温の地、現在の河南省焦作市武陟県)の田を争い、周の簡王康公中国語版と単の襄公を晋に派遣した。郤至は「温、吾故也、故不敢失」と言った。劉の康公・単の襄公は「昔周克商、使諸侯撫封、蘇忿生中国語版以温為司寇中国語版、与檀伯達封于河(河内)。蘇氏即狄、又不能于狄而奔襄王文公而賜之温、狐氏・陽氏先処之、而後及子(郤氏)。若治其故、則王官之邑也、子(郤氏)安得之?」晋の厲公は郤至に争いをやめるように命じた。

魯の成公十六年(紀元前575年)十二月、晋の厲公は郤至を周王室に派遣し、との鄢陵の戦いの勝報を伝えた。単の襄公と会話を交えたが、手柄話ばかりした。

魯の成公十七年(紀元前574年)夏五月、太子髠頑侯孺を楚に人質として出し、楚の公子成中国語版公子寅が鄭の守備についた。魯の成公・武公中国語版・単の襄公は諸侯を連れ鄭を討伐した。

参考文献

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襄公

不明 - 不明

先代
単伯

不明
次代
頃公