蟻の街

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蟻の街(ありのまち)とは、1950年頃、現在の隅田公園東京都墨田区)の一角で、言問橋(ことといばし)のそばにあった廃品仕切場および「蟻の会」という労働者の生活協同体があった一帯を指す。マスコミ報道によって付けられた呼び名である。文献によってはアリの街[1]アリの町[2]とも書く。

この一帯で廃品回収をして働く人々とその家族が生活する共同体「蟻の会」や、この蟻の街で生活した松居桃楼北原怜子、様々な援助をした修道士ゼノ・ゼブロフスキーらの活動が、マスコミ報道等によって全国的に知られた[1]

1960年に東京都の代替地斡旋により、東京都江東区深川8号埋立地(現在の潮見)に移転した[2]

成り立ち[編集]

仕切り場とバタヤ[編集]

旧「蟻の街」があった一角の初期は、同胞援護会が管理していた製材工場跡と約600坪の土地を元ヤクザの小沢求が同会より借り受け、廃品の仕切り場とするためだった。仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収させ、再生工場へ送る事業を行った。当時はこのような業務を行う労働者を「バタヤ」と呼んだ。収集して来た物品の買い取り価格が低いため、バタヤの生活は貧しく苦しかった。小沢は自前の仕切り場を開設し、バタヤたちに適切な報酬を支払うことを目指した。小沢の仕切り場での報酬は出来高払いで、仕切り場の労働者とその家族たちを居住させ、仕切り場はいわば生活共同体となった。当時はバタヤたちが公共の土地に無許可で集落を形成する「バタヤ集落」[3]が点在し、小沢の仕切り場もその一つと見なされていた[1][2]

蟻の会[編集]

この仕切り場を立ち上げた小沢求は、バタヤが浮浪者や乞食と異なり、人にものを恵んでもらって生きるのではなく、働いて生きていることを熱心に語り、誇りにしていた。

小沢が仕切るこの一角では、廃品回収の報酬等に関するトラブルや、地元ヤクザ等と争いが多発し、東京都などの行政は、隅田公園から蟻の街を撤去させるための手段を模索していた。

小沢は自分の仕切る一角で起こるトラブルについて、法的手段で解決しようと考え、同胞援護会が関係する法律事務所に相談した。この事務長が、当時その法律事務所でアルバイトをしながら著作や脚本などを手掛けていた松居桃楼だった。松居は、行政や世間の無理解と闘い理想郷を作ろうという小沢の考えに賛同し、自分も法律事務所を辞め、蟻の街に住みながら小沢の相談役に専念することにした。松居は当時40歳になったところだった。

こうして小沢の仕切る一角の共同体に参加した松居は、この共同体に「蟻の会」という名前を付けた。

蟻の会理念と戦略[編集]

蟻の街が他のバタヤ集落[3]と異なるのは、代表の小沢による信念に松居が理論づけをし、それに基づいて戦略を建てて実行している点である。松居の「蟻の会設立趣旨」によると、「虫けらと蔑まれている浮浪者でも、蟻のように仲良く助け合って共同生活をすれば、必ず自力で更生できる」としている。

なお、松居によると、1950年当時の東京都は1日2000トンのゴミを排出し、その中にはリサイクル可能なものが20%は含まれていた。それを拾い集めると当時の金額で年間8億円に相当したという。

代表の小沢は機会あるごとに「10年の月日があれば、必ず自力で共同住宅を建てて見せるから、焼き払わないでほしい」と訴えてきたが、当時の政治家・行政当局、東京都民は本気にしなかった。

松居は行政との戦いの武器としてマスコミを利用し、蟻の街に対する好意的・効果的な新聞雑誌の記事によって世論を味方につけることを考え、行政による蟻の街の焼き払いや追い立てを抑制しようとした。蟻の街がマスコミでよく取り上げられるようになったのは、この松居のマスコミを利用した対行政戦略であったことが大きい[2]

ゼノ修道士と蟻の街の教会[編集]

新聞記事[編集]

松居桃楼が蟻の街に移住した頃、1人のポーランド人修道士が蟻の街に訪れ、子供たちに片言の日本語で話しかけながらキャンディを配り始めた。これがゼノ修道士であった。これを目にした小沢求は、「我々は乞食ではないから、そのような真似はよして欲しい。」と抗議した。さらに小沢はゼノに対し、「我々が欲しいのは物ではなく、我々を理解してくれる心なのだ」と言うと、ゼノは「自分の考えも同じである。自分の心を差し上げたい。どうすれば良いか。」と訊ねてきた。

後からその場に駆け付けた松居は、ゼノに対し、「新聞記事としてこの蟻の街が掲載されるようにして欲しい。」と言った。ゼノは、自分のことを新聞各社は知っているから自分がこの街に来ていることを、電話するといい、各社はここに駆け付けるだろう、と松居に言うので、半信半疑ながら松居は、新聞各社の知り合いの記者にゼノ修道士が蟻の街に来ているから取材に来るよう依頼した。

しかし、新聞各社の反応はゼノ修道士の言葉とは相反していた。当時、ゼノ修道士は既に、蟻の街と似たような焼け跡の集落を慰問しており、その姿がすでに何度も記事となっていたため、今またゼノ修道士が蟻の街に慰問に訪れたところで、何の新鮮味もなく、記事にならないと新聞各社は回答してきた。

ゼノ修道士の来訪をきっかけに蟻の街をどうしても新聞記事としたかった松居は、ある新聞社に対して次のようなことをその場の思い付きで話した。

「蟻の街でカトリック教会を建てることになったので、その相談にゼノ神父が来ている。」

これを聞いた新聞記者は、次の様な記事を書いた。「アリの街に十字架 ゼノ神父も一役」[1]

実は、この件が終わった直後、松居は自分がこのことを言ったことすら忘れてしまったが、この記事と話は様々な人々を大きく動かし、係わった人々や蟻の街、東京のカトリック教会にまで影響を与えた。そして、このことを真剣に受け止めた人物が、ゼノ修道士であった[2]

ゼノ修道士はこの新聞記事が掲載された後日に東京都に呼び出され、蟻の街がある土地はもともと東京都の土地であり、教会を勝手に建造されては困ると注意を受けた。ゼノは当時「ゼノ神父」と報道されていたが、もともと一介の修道士に過ぎないゼノは、教会を設立できる権限を持っていない。東京都の担当者は事情を把握していなかった。

ゼノと問答を繰り返すうち、担当者は「あの地区で子供博覧会が開催される予定である。だから教会を建てられるとその子供博覧会が開催できない。」という理由でゼノを説得したが、その話が途中から「子供博覧会が終了する翌年5月以降であれば教会を設立してもよい」ということになってしまった。ゼノはこのことを担当者に確認させ、押印つきの念書を書かせた。この押印つきの念書はゼノから小沢に渡り、小沢はこの念書を大事に保管していた[2]

北原怜子と子供たち[編集]

「アリの街に十字架」の記事を目にした北原怜子が、偶然出会ったゼノ修道士を追って蟻の街にやって来た。北原は大学教授の娘で、ゼノや松居に誘われて、子供たちのためにクリスマス会を開く準備の手伝いをするなどの活動を始めた。北原はその後、蟻の街の子供たちの勉強を見るなどの世話を担当するが、彼女が係わる修道院でミサを挙げていた若い外国人神父と松居桃楼が衝突したことがきっかけで、松居から「富める者の施しは貧しい者たちをみじめにさせるだけ」と指摘を受け、ショックを受けた。それ以降、北原はリヤカーを押し、子供たちと共にクズ拾いや廃品回収を始めた。北原はこのようにしてクズ拾いで稼いだ金で子供たちを旅行に連れて行ったり、共同募金に寄付するなどの奉仕活動を行った[1]

北原の活動は、松居桃楼のマスコミへの働きかけで「蟻の街のマリア」として新聞・雑誌に記事として取り上げられるようになる。肺結核を病んでいた北原は、病身にもかかわらず蟻の街の子供たちのために奉仕した。松居の説得で、一度は療養のために蟻の街を去ったが、余命が短いと医師に判断された後は、蟻の街に移り住んで療養を続け、蟻の街の住民として死んだ[2]

教会の建設[編集]

蟻の街の子供たちを世話する北原怜子の姿に感動した小沢求は、子供たちの勉強部屋を確保するために2階建て家屋を蟻の街に建てた。これは、東京都の隅田公園管理者により取り壊し命令を受けるが、小沢は、ゼノ修道士が以前に東京都の担当者から教会建設を許可する念書を預ったことを思い出し、この2階建て家屋の屋上に大きな十字架を建て、この建物を「蟻の街の教会」とした。この「教会」の建設3年後には、東京大司教により許しを得てカトリック浅草教会の司祭が来てミサが挙げられる。松居がマスコミ相手にその場の思い付きで口にしたカトリック教会の建設だったが、この教会設立が実現することを信じていたのがゼノ修道士であった。

その後、ゼノや北原に影響を受けた小沢を始めとする十数名の蟻の街住民がカトリック教会の洗礼を受けることになった。その中には、当初、カトリック関係者に不信感を持っていた松居もいた。小沢の洗礼名はゼノ、松居の洗礼名はヨゼフである[2]

移転[編集]

東京都の移転要求[編集]

東京都は蟻の街を隅田公園から撤去するよう様々な方策を取ってきたが、それはどれも間接的なものであった。この地は、同胞援護会が借り受けて建てた製材工場跡を小沢求が同会から正式に借地しているものであり、他のバタヤ部落と違って不法占拠しているものではなかった。しかしながら、東京都側は蟻の街も隅田公園を占拠するバタヤ部落として捉えていた。

蟻の街が成り立ってから5年後に、東京都が代替地を斡旋するから移転するよう移転要求をしてきた。もともと不法占拠ではない蟻の街は、代替地無償提供を求めることができる立場ではあった。しかし、浅草一帯に思い入れがあった小沢求は隅田公園をもとの姿に戻したいと以前から希望しており、数年後に移転する計画を持っていた。ただし蟻の街への流入者数が日増しに伸びて行き、適当な移転先がなかなか見つからない状況が続いていたのであった。

そのため、小沢求は東京都のこの代替地斡旋による立ち退き要求に同意した。ところが、この移転同意の段階では代替地が決定していなかった。蟻の街の立ち退きのみが決定しており、ある意味では単なる蟻の街の焼き払い計画である可能性があった[2]

移転地決定まで[編集]

東京都が蟻の街の立ち退きに関する準備を進める中、代替地をなかなか提示しないことにしびれを切らした松居桃楼は、この代替地斡旋の条件による立ち退きを要求して来た東京都の部長のもとに赴き、直談判をした。この時、松居は北原に彼女が愛用しているロザリオをお守り代わりに託されていた。松居は担当部長に北原が託したロザリオと、彼女の著書『アリの町のこどもたち』をその机の上に置き、北原の命をかけた活動、蟻の街が東京都に果たす役割、その経済効果を熱弁した。北原の著書はそのまま部長の机に残してきた。

後日、その担当部長は北原の著書を手に蟻の街を訪問した。彼は応対に出た松居より北原の著作が全て実話だと聞かされ、北原が子供たちの歌声に合わせて伴奏するオルガンの音を耳にし、「今回の換地問題は大変難しい。しかしこの件に関しては、自分は立派な役人であると同時にりっぱな人間でありたい」と回答した。

代替地決定と資金問題[編集]

その後に東京都が斡旋を提示して来た代替地は、東京湾の埋立地の一部である「8号埋立地」の約5000坪であった。ただし、その敷地代2500万円を即金で支払うことが条件となっており、これは蟻の会としては難しい条件であった。蟻の会は移転地に建設する建物やその他の予備経費を換算した場合、敷地代として支払い可能な金額は1500万円、それも5年間での分割支払いにしなければならなかった。この交渉は難航し、蟻の会は難しい局面に立たされた。

数ヶ月後に東京都の担当者に呼び出しがあり、代表者代理として松居が都庁に赴いた。その時の担当者が再提示した条件は、「敷地代1500万円で5年間分割」と言う蟻の会の要求を全面的にのんだものであった。この時、担当係官の机の上には、北原の著書『アリの町のこどもたち』が置いてあった。

この日は1958年(昭和33年)1月20日で、蟻の会設立のちょうど8年目の日だった。なお、3日後の1月23日に北原が死去した[2]

新・蟻の街[編集]

1960年(昭和35年)6月4日に蟻の街は隅田公園一角より東京都江東区深川8号埋立地へ移転した。敷地面積は16000㎡で、旧蟻の街の10倍であった。新蟻の街では、バタ車と呼ばれた手押し車や重労働であった梱包作業は姿を消し、トラックとベルトコンベヤによる全自動装置によるものに変わった。公衆浴場、児童公園、保育室などの福利厚生施設も建設されるなど、恵まれた社会環境が整備された。蟻の街教会はカトリック枝川教会となって小教区に認められ、現在はカトリック潮見教会と名称を変更している[2]

その後[編集]

廃品回収は廃品を入手できなくては成り立たない。移転した8号埋立地界隈は人口の多い市街地から距離があり、実際の業務には不向きであった[4]。また、やがて高度経済成長の流れの中で他の活計を見出すなど、新・蟻の街も徐々にその構成人員を減少させていった[4]。8号埋立地は潮見と名を変え京葉線の駅もできマンションが林立するなど風景も様変わりした[4]。往時からこの地に残ったのはコンクリート造に姿を変えた教会と、その南側に建つ「蟻の会事務所」のみであった[4]

事務所はその原点、貧しい人たちのために「難民のための一時宿泊所」へ転用する計画がある[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 酒井友身 『アリの街のマリア』 女子パウロ会、1988年ISBN 4-7896-0292-3
  2. ^ a b c d e f g h i j k 松居桃楼 『アリの町のマリア 北原怜子』 春秋社、1998年ISBN 4393495179
  3. ^ a b 参照文献が「バタヤ集落」となっている。「バタヤ部落」の呼称は差別的であり、参照文献でも使用していないためなじまない。
  4. ^ a b c d e 潮見教会”. カトリック東京大司教区. 2014年3月16日閲覧。

外部リンク[編集]