立本寺
立本寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町107 |
位置 | 北緯35度1分30.9秒 東経135度44分18.9秒 / 北緯35.025250度 東経135.738583度座標: 北緯35度1分30.9秒 東経135度44分18.9秒 / 北緯35.025250度 東経135.738583度 |
山号 | 具足山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 1321年(元亨元年) |
開山 | 日像 |
正式名 | 具足山立本寺 |
別称 |
西龍華 妙顕寺龍華院(前身) |
札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
文化財 | 紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図(重要文化財)ほか |
法人番号 | 6130005002155 |


立本寺(りゅうほんじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が4か院ある(正行院、教法院、光源院、大輪院)。
歴史[編集]
日像が創建した妙顕寺を起源とする。日蓮の弟子で京都での布教に携わった日像は元亨元年(1321年)、御溝傍今小路(京都市上京区)に妙顕寺を創建。暦応4年(1341年)、四条櫛笥(下京区四条大宮付近)に寺地を移した[1]。妙顕寺は嘉慶元年(1387年)山門(延暦寺)により破却されるが、明徳4年(1393年)、三条坊門堀川(二条城南東付近)に再興され、寺号を妙本寺と改めた。
応永20年(1413年)、妙本寺は再度山門により破却され、5世月明は丹波に難を逃れた。応永23年(1416年)、日実は妙顕寺の旧地(四条櫛笥)に寺を再興し、本応寺と号したが、一方、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺に復称)、本応寺と対立した。この本応寺が改称して立本寺と号した[2]。なお、妙顕寺(妙本寺)と本応寺(立本寺)の分立については異説もあり、明徳4年(1393年)、日実が四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再興し、本応寺(のち立本寺)と号したとする説もある[3]。
立本寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は天文13年(1544年)新町三条に伽藍を再建した。その後文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)にふたたび移転した。
宝永5年(1708年)宝永の大火で焼失後、現在の地に移転し、伽藍を再建した。
具足山龍華院妙顕寺、具足山妙覺寺(北龍華)、立本寺(西龍華)の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。
現住は97世上田日瑞貫首(京都市妙円寺より晋山)。生師松ヶ崎法縁。
伽藍[編集]
宝永5年(1708年)の大火後、前地京極今出川で類焼を免れた祖師堂、開祖廟、鐘楼堂、本堂前井戸屋形、経蔵等を現在地へ移築した[4]。
伽藍の他の建物は順次に再建された。本堂、刹堂(鬼子母神堂)、客殿、鐘楼、表門が京都市の有形文化財に指定されている。本堂は寛保3年(1743年)、刹堂は文化8年(1811年)、客殿は享保13年(1728年)、表門は安永7年(1778年)の建立である。鐘楼は旧地から移されたもので江戸時代中期の建立。鬼子母神堂(刹堂)は天明3年(1783年)の焼失後に再建された。[5]
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鐘楼堂
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刹堂(鬼子母神堂)
文化財[編集]
重要文化財(国指定)[編集]
- 紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図 8幅
- 法華経并観普賢経(藍紙) 7巻
京都市指定有形文化財[編集]
京都市指定名勝[編集]
- 龍華庭園
旧末寺[編集]
日蓮宗は昭和16年(1941年)に本末を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼びならわしている。
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その他[編集]
所在地[編集]
京都府京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町107
交通アクセス[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂出版、1984年
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979年