石谷伝四郎

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石谷 伝四郎(いしたに でんしろう、1866年6月12日慶応2年4月29日[1])- 1923年大正12年)12月19日[2])は、日本の実業家政治家。鳥取県平民[3]。鳥取県多額納税者[3]

経歴[編集]

鳥取県八頭郡智頭町に生まれる[4]。石谷伝九郎の長男[4]

慶應義塾を卒業、家業を継いだ[4]。町会議員、県会議員となって活躍した[4]

1898年には衆議院議員に初当選し、その後も2回同議員となって活躍した[4]。 多額納税者で、1918年には貴族院議員に選ばれた[4]

1914年に大正鳥取銀行が設立されると頭取となり、奨恵銀行監査役、(財)智頭報徳社社長にも就任し、金融・農林業など地域産業の発展に尽くした[4]

家族・親族[編集]

石谷家[編集]

鳥取県八頭郡智頭町
石谷家は在方商人として宿場の中心の往来筋に店を構え、問屋稼業や金融業、山林地主として成長したが、それら経営内容や形成過程を知ることが可能な文書は、宝永年間(1704年~1710年)から大正末まで詳細に記されており、保存資料は五千点を数える[5]
本家石谷家は屋号を塩屋(志保屋とも記す)といい、古くは鳥取城下での卸問屋を家業とし、藩の御用商人として成長していったと伝えるが、過去帳からは、延宝年間(1673年1680年)頃、智頭宿へ来住したと推測される。
大正時代の当主石谷伝四郎が記した『楓軒文書(ふうけんぶんしょ)』には、宝暦年間に火災にあい、一部事績を失ったとある[5]
略系図から、俗名が知れるのは八左衛門からで、次の吉兵衛の子息、初代伝三郎が本家を継ぎ、弟の彦太郎が分家上塩屋をおこした。初代伝三郎の子息伝四郎は本家を継ぎ、二男治左衛門が分家下塩屋を、三男兵次郎が分家新塩屋をおこして名望家として独立していった[5]
初めて大庄屋に任じられたのは新塩屋の兵次郎で、天明2年(1782年)の事、農村体制が崩壊しはじめ、農民農業を離れて余業に走るような時代に跡役を継いでいる[5]。その後、本家の二代目伝三郎が二度にわたって大庄屋を勤めたが、折しも「天明の飢饉」にあたり、不作・凶作によって深刻な事態に見舞われ、その窮状を訴える文書(もんじょ)がたくさん残されている(石谷家文書)[5]
初代伝九郎の代は、文化10年(1813年)より8年間にわたって大庄屋を勤めたが、新見谷・土師谷の困窮を救うことができず、藩からお咎めを受けながらも、在方役人として懸命に上構(かみがまえ)(下構は用瀬・佐治)の財政を立て直そうと努力している[5]。その跡は国米(こくまい)家が大庄屋を引き継ぎ、江戸時代末期には新塩屋の直四郎が大庄屋を勤めた[5]
明治・大正時代、新時代をむかえた本家石谷家からは、貴族院議員や第一高等学校教授を輩出し、政治・社会の近代化に多大な功績と足跡を残した[5]

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院『第十八回帝国議会衆議院議員名簿』(第十八回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1903年〕、20頁。
  2. ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、63頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録. 7版』(大正14年)い一九〇
  4. ^ a b c d e f g 『鳥取県大百科事典』48頁
  5. ^ a b c d e f g h 石谷家の紹介

参考文献[編集]

  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年、48頁。

関連項目[編集]