矢野幸夫

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矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年[1]12月22日[2] - 2004年5月17日[3])は日本競馬騎手調教師、および整体師。

来歴[編集]

北海道[2]静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。実家は軍馬を生産する[1]牧場だった[1][2]

1930年[2]中山競馬場東原玉造厩舎[1][2]所属の見習騎手となり[2]、1933年に騎手免許を取得[1]日本競馬会時代の1941年には優秀騎手として表彰され[4]国営競馬時代の1951年には最高技能賞を受賞[4]している。

1952年に調教師免許を取得[2]し、その後中山競馬場で厩舎を開業。1978年美浦トレーニングセンター開設に伴い移転。1994年[2]2月をもって定年引退する[5]までの間に通算1060勝[2]を挙げた。同年2月27日に中山競馬場で引退式が行われ[6][5]、代表してファンに挨拶を行った[5]

調教師引退後は馬の整体師として活動し[7][8]、日本各地で講演活動なども行った。

おもな騎乗馬[編集]

おもな管理馬[編集]

おもな厩舎所属者[編集]

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

  • 小野定夫(1955年 - 1961年 騎手)
  • 新関力(1956年 - 1958年 騎手)
  • 矢野進(1957年 - 1971年 騎手、1971年 - 1973年 調教助手)
  • 油木宣夫(1962年 - 1985年 騎手)

矢野進は養子縁組した弟子である。このほか、進駐軍の軍人として日本に来ていたアメリカ人のロバート・アイアノッティを厩舎所属の騎手として採用し、戦後初の外国人騎手として2年間騎乗させた。アイアノッティは短期間の騎乗であり、騎乗回数もそれほど多くはなかったものの、その騎乗技術は当時の騎手に影響を与えたという。

馬の整体[編集]

矢野が整体術に興味を持ったきっかけは1966年、成績不振の管理馬が沼田という整体師の治療によって復調したのを目の当たりにしたことにある[9]。翌1967年には農薬の混じった飼い葉を食べて中毒症状に陥ったモンタサンにマッサージを施し、解毒に導く経験をしている[2]長生学園[10]5年間通って[10][2]カイロプラクティックの技術を身に付け、これを自身が管理する馬のほか、他厩舎の馬や[2]人にも[10]無料で[10]施していた。

不調の馬の背骨のズレを調べて木槌(2000年時点ではゴム製のハンマー[7])で叩いて矯正し、立て直したという話は多い。1975年[10]種牡馬セントクレスピンが原因不明のインポテンツになり、治療も効果が上がらず関係者一同を悩ませる事態が起きたが、たまたまセントクレスピンを見物に行った矢野が馬に触れているうちに背骨にわずかなズレを見つけ、やはり木槌を持ってきてこれを矯正、ほかにも針を打つなどして[10]治療した結果、数日後には種付けが可能となった[10]。この成果はレポートにまとめられ、日本国外からも注目された[10]

参考文献[編集]

  • 今井昭雄「厩舎ぶらり歩き(8) 矢野幸夫調教師 物言わぬ病馬の救世主」、『優駿』、日本中央競馬会、1984年10月、 74-77頁。
  • 奥岡幹浩「競馬仕事(27) 整体師の巻」、『優駿』、日本中央競馬会、2000年6月、 78-79頁。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『優駿』1984年10月、 75頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』2000年6月、 79頁。
  3. ^ 馬の整体” (日本語). From Dewa Farm. 出羽牧場 (2010年6月11日). 2012年12月25日閲覧。(画像参照)
  4. ^ a b c d e f g 『優駿』1984年10月、 76頁。
  5. ^ a b c 中央競馬を振り返る” (日本語). 競馬ニホン (1994年2月). 2012年4月3日閲覧。
  6. ^ 「今月のトピックス『数々の名馬を、ありがとう! - 4調教師が惜しまれつつ引退』」、『優駿』、日本中央競馬会、1994年4月、 76頁。
  7. ^ a b c 『優駿』2000年6月、 78頁。
  8. ^ アラカルト” (日本語). 競馬ニホン (1999年10月31日). 2012年4月3日閲覧。 “元調教師、矢野幸夫氏がテレビ出演”
  9. ^ 『優駿』1984年10月、 76-77頁。
  10. ^ a b c d e f g h 『優駿』1984年10月、 77頁。

関連項目[編集]