真里谷信勝

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真里谷 信勝(まりやつ のぶかつ、? - 大永3年(1523年))は、戦国時代の武将。真里谷城の城主。

上総武田氏の真里谷武田家当主。真里谷信興の子。別名は信嗣。通称は八郎五郎。官職は式部丞・式部大夫・三河守。法号は全舜・三河入道。真里谷恕鑑(信清)、真里谷全方、女子(簗田政助[1])、女子(三浦義意室、異説あり)の父。

真里武田家は上総武田氏の一家で、長南(庁南)武田家とは武田信長を祖とする同族である。信勝は信長の曾孫にあたる。父の信興の没年は永正8年(1511年)であると伝わるが、それ以前から信勝が当主として活動している。

同族の武田宗信(庁南家)と共に三上氏原氏と抗争した。千葉氏の後ろ盾を持つ原氏と対抗するため、1517年古河公方第2代足利政氏の子である空然を擁立し、原氏の居城である小弓城を奪取し、城主の原胤隆や一族の原友胤原虎胤父子を追放した。空然は還俗足利義明と名乗り、小弓公方を称した。その後古河公方第3代の足利高基が攻め寄せてくるとこれと戦った。

以上の小弓公方擁立事件の際の真里谷武田家の中心人物は信勝とも子の信清であったともされている。

脚注[編集]

  1. ^ 簗田氏が創建した東昌寺茨城県猿島郡五霞町山王山)所蔵の『與五將軍系圖』には、簗田政助の子である簗田高助について「母者真里谷式部大夫全春女」(=母は真里谷式部大夫全春の娘)と記されている。「全春」は真里谷信勝の法名「全舜」を指していると考えられるので、簗田高助の母(=簗田政助の妻)は真里谷信勝の娘であるということになる。古河市史編纂委員会『古河市史 資料 中世編』(古河市1981年)733頁を参照。