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畠山基徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

畠山 基徳(はたけやま もとのり、生没年不詳)は、江戸時代高家旗本畠山基利の養子[1]。実父は畠山義方[1]。正室は本多助賢の娘。通称は左衛門[2]上総介民部大輔[2]

生涯

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天保11年(1840年)5月7日、父・基利の死去により家督を相続する。天保13年(1842年)12月8日、高家職に就き、従五位下侍従[2]上野介[要出典]に叙任する。後に民部大輔に改める。嘉永3年(1850年)7月16日、病のため辞職する[2][3]。以後、雁間末席に列する。つまり、高家末席という優遇措置を得ることになった。

文久2年(1862年)3月29日、隠居し、息子・基永に家督を譲る。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)3月10日、自領の陣屋栃木市嘉右衛門町)に入った[3]

足利への復姓

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明治元年(1868年)7月、畠山氏は本姓である「足利」を名乗ることを願い出て、以降は足利氏を名乗る[3]。子・基永は「足利木久麿」と改称した[3]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 高家旗本と近世鹿沼の人々〔上〕鹿沼の「お殿様」たち”. ジブンスタイルかぬま. 鹿沼市. 2023年9月20日閲覧。
  2. ^ a b c d 東京大学史料編纂所 1963, p. 51.
  3. ^ a b c d 高家旗本と近世鹿沼の人々〔下〕幕末・維新の鹿沼と高家”. ジブンスタイルかぬま. 鹿沼市. 2023年9月20日閲覧。

参考文献

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先代
畠山基利
高家河内畠山家当主
1840年 - 1862年
次代
畠山基永