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男女神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
男女神社
男女神社拝殿
拝殿
所在地 佐賀県佐賀市
大和町大字久留間5109
位置 北緯33度19分3秒 東経130度13分53秒 / 北緯33.31750度 東経130.23139度 / 33.31750; 130.23139 (男女神社)座標: 北緯33度19分3秒 東経130度13分53秒 / 北緯33.31750度 東経130.23139度 / 33.31750; 130.23139 (男女神社)
主祭神 男女大明神
伊耶那岐命伊耶那美命
住吉大明神
古事記:底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神
日本書紀:底筒男命、中筒男命、表筒男命
社格 川上村社
創建 約800年前と推定
例祭 4月27日
主な神事 例祭 新嘗祭 祈年祭 歳旦祭
地図
男女神社の位置(佐賀県内)
男女神社
男女神社
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男女神社(なんにょじんじゃ)は、佐賀県佐賀市にある神社[1]。旧社格は川上村社。現在は大字久留間の氏神として祀られている。神社本庁所属、佐賀県神社庁管轄。

祭神

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古事記』と『日本書紀』に記された祭神。

歴史

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今山の合戦と男女神社

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今山の合戦とは、戦国時代、豊後国(大分県)の大名大友宗麟と、肥前の国の大名龍造寺隆信との間で行われた合戦で、龍造寺の家老の鍋島直茂が、今山の地(現在の佐賀市大和町大字久留間字今山)で、大友8万(6万~10万の説あり)の大軍に僅か700(500~700の説あり)の兵で奇襲し、総大将大友親貞(宗麟の弟、又は甥)を討ち取った戦いである。

当時この今山は仏教繁栄の霊地として栄え、男女神社は、東の谷に講堂棟、西の谷に楼門を持つ大社であり、光明寺(男女神社南東約800メートルに位置、今は廃寺)の座主が、男女神社の神座を勤めていた。しかし、この戦いの日に戦火に焼かれ、宝物・古文書等は全て焼失する。

1570年(元亀元年)、大友8万の大軍に包囲された佐賀城は、5千の兵力しか無く、軍評定で篭城や降伏論が飛び交う中、鍋島直茂は奇襲を進言、無謀だと否定的だった龍造寺隆信も、母の慶誾尼の激で奇襲を決行する事となる。

大友軍本陣は男女神社東の赤坂山中腹に布陣し、8月20日(陽暦9月19日)を佐賀城総攻撃と定め、その前日に勝利の前祝いの酒宴を開いた。

酒宴の情報を知った鍋島直茂は、午後6時頃、佐賀城を僅か17騎で出発したが、近隣の武将達も次々に駆け付け、今山に着く頃には700余りの兵になり、地元の山伏達の協力を得て、男女神社の西側から谷伝いに山を登り、密かに大友軍の背後、赤坂山裏側(ここには200~300の兵を布陣)に潜伏する。

明朝7時頃、男女神社北東の大松(鐘は現在鍋島の新庄八幡宮から運んだ伝えられる)に掛けた鐘の合図で、「寝返った者が出た」と虚報を流し、一斉に奇襲を敢行、武具も付けず油断していた大友勢は大混乱に陥り、同士討ちを始めた軍中で、総大将親貞主従3人は何とか混乱を脱したが、山伝いに逃れるところを、首を挙げらてしまう。総大将を討たれた大友軍は一瞬にして烏合の衆と化し、2000余の兵を討たれて潰走、奇襲は成功に終わった。

その時、鍋島勢は各々鬼面を冠り、鐘、太鼓を打ち鳴らして奇襲をかけたと伝えられ、佐賀の郷土芸能の面浮立(面浮立の起源は多々説がある)として現在も残っている。

男女神社は、1654年(承応3年)、佐賀初代藩主鍋島勝茂、小城藩祖鍋島元茂の出資で再建、また鍋島元茂は、古戦場跡に正勝寺(字横馬場に現存)を建立する。

1926年(大正15年)、佐賀で陸軍特別大演習が行われ、御前講和で今山の合戦の講和がなされた。1931年(昭和6年)、陸軍大学校参謀演習にて、秩父宮雍仁親王が今山合戦の研究のためこの地に立ち、前方の小円墳の上に記念碑が建てられている。

関連画像

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脚注

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参考文献

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  • 「肥陽軍記」「九州治乱記」「大和町史」

外部リンク

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