甲山事件
甲山事件(かぶとやまじけん)とは、1974年に兵庫県西宮市の知的障害者施設・甲山学園で園児2人の死亡事故が発生したことに端を発する一連の事件。事件に関して起訴された者の全員の無罪が確定した。
事件の経過
[編集]発生
[編集]1974年3月17日、園生の女児(12歳)が行方不明となる。また同月19日、園生の男児(12歳)も行方不明となる。同日中に学園の浄化槽から2人の溺死体が発見された。検視の結果、被害者女児は3月17日に死亡、被害者男児は3月19日の食事後2、3時間後に死亡したことが判明した。胃内に残されたミカンの残渣が死亡時刻の特定に繋がった。
当初は浄化槽周辺が園児たちの遊び場となっていたため園児による事故ととる説もあったが、遺体が発見された時には浄化槽は17kgのマンホールの蓋で閉じられていたことから、警察は園児の力でマンホールの蓋の開け閉めができないと判断し、また同じ現場で短い時間の間に二人の死体が続いて放置されていた不自然さから大人による殺人事件として捜査した。また甲山学園は外部から隔離され、外部進入の形跡がなかったことから、内部犯として捜査が絞られ、最終的にアリバイのない者は保育士の山田悦子に絞られた。
初逮捕から裁判まで
[編集]4月7日、同施設保母の山田が殺人容疑で逮捕された。しかし、検察は証拠不十分で不起訴とし、釈放。山田は不当な人権侵害であるとして国家賠償請求訴訟を起こす。
不起訴に対して、被害者男児の遺族が検察審査会に不服を申し立てる。検察審査会が「不起訴不当」の議決を出したため、警察による再捜査が始まった。その後、検察が行った再捜査時に園児から「女性が園児を連れ出すのを見た」という証言が得られたとして、1978年に山田は再逮捕、同年殺人罪の容疑で起訴された。
また、国家賠償請求の裁判で保育士のアリバイを証言した当時の園長・荒木潔と山田の同僚も、園児の証言に矛盾するアリバイ証言は偽証として、偽証罪で起訴された。山田を含めた3人は公判開始前に保釈されている。山田は、取調べで「やってないならアリバイを証明しろ、証明しないならお前が犯人だ、証明できたら釈放してやる」等と言われた、と主張した。
1980年、園児の女児が「自分を含めた5人で浄化槽の近くで遊んでいた際に、マンホールの蓋を少し開け、それから横の方に動かして全部開けた。私が、被害者女児の手を引っ張ったら浄化槽に落ちた後、マンホールを閉めた。その時に被告人はその場にいなかった」と、マンホールを園児が複数で動かすことによって開け閉めができたことと、一人目の被害者が殺人事件ではなく事故であったことを供述。
1985年、一審の神戸地方裁判所は無罪判決を出すが、検察はこれを不服として控訴。1990年、大阪高等裁判所は無罪判決を破棄し、地裁へ差し戻した[1]。山田側はこれを不服として上告。1992年、最高裁判所は上告を棄却し、神戸地裁への差し戻しが確定した。
1998年、差し戻し第一審の神戸地裁は再び山田に無罪判決を出すものの、検察は再び控訴。1999年、大阪高裁は山田に対する無罪判決を支持し、検察側の控訴を棄却。その後、検察は10月8日に最高裁への上告を断念。事件発生から25年が経過しようやく山田の無罪が確定した。事件当時22歳だった山田は、この年には48歳になっていた。アリバイを証言したことが偽証罪で起訴された園長と同僚も同年11月4日に無罪が確定した。
事件の総括
[編集]事件発生時から25年、裁判開始からも20年以上が経過するという、再審を含まない刑事裁判としては稀に見る長期裁判となった。また、5回の裁判を通じて一度も有罪の判決は下されていない、1999年の第二次控訴審では弁護団が総勢239人[2]にまで膨れ上がるなど、様々な意味で異例ずくめの事件だった。
この事件の真相は二人目の被害者の死亡経緯など未だに不明な点もあるが、事件の性格としては証人となりうる者が園児、また知的障害者であったために正確な証言を聞き出すのが難しかったことがあげられる。また捜査当局が「マンホールの蓋を園児が開けることができない」「二人の園児が同じ場所で続いて死亡し、蓋が閉じられていることが不自然」と判断したことが、最終的に山田の殺人罪起訴に繋がった。
発達心理学の専門家として裁判に関わった浜田寿美男は『証言台の子どもたち 甲山事件 園児供述の構造』の中で、法廷に立った当時の園児たちの証言を精査し、それが虚偽であることと、その虚偽性は知的障害の有無とは独立して証明できることを書いている。『記憶の闇』を書いた松下竜一は、「判決がどのようなものになろうと、私は被告の側に立つ」という主旨を作品中で書いており、被告の無罪を確信する立場で同作品を執筆している。冤罪を生み出す当時の捜査の在り方、検察側の態度が厳しく問われる事件であったと言える。
歴史社会学者の田中ひかるは、「警察は、『生理中の女性は気が昂ぶっていて、発作的な犯行に及ぶかも知れない[3]』という考えから、関係者の女性全員の月経日を調べ、たまたま事件の日に月経が始まったSさんへの嫌疑を深めた」と述べ、女性は月経時に嘘をつきやすく犯罪を犯しやすいという偏見(19世紀イタリアの精神科医チェーザレ・ロンブローゾが主張し、日本にも広まっていた)の冤罪への影響を指摘している[4][5]。
事件後
[編集]現在、甲山学園は閉鎖されているが、跡地は病院として機能している。
2011年、偽証罪に問われた当時の園長・荒木潔が死去[6]。
被害者女児と被害者男児の両親は、「管理責任が欠けていたために子供を死亡させた」として社会福祉法人甲山福祉センターを相手取り、精神的苦痛を理由に合計3367万円の損害賠償を請求した。この裁判では原告が勝訴し、甲山福祉センターは被害者両親に合計1133万円を支払うことになった。裁判中に甲山福祉センター側が「知的障害者死亡によって、両親は苦労を免れたため、精神的苦痛を理由とする損害賠償は筋違い」と主張したため、知的障害者を育成する立場にある者が知的障害者の生存を軽視した差別発言として問題視された。
清水一行はこの事件をモデルにした小説『捜査一課長』で山田がモデルの保育士を犯人視するストーリーを書いていたが、名誉毀損で訴えられ敗訴した。
文献
[編集]- 上野勝、山田悦子(共編著)『甲山事件 えん罪のつくられ方』現代人文社、2008年6月、ISBN 4877983783
- 木部克己『甲山報道に見る犯人視という凶器』あさを社、1993年10月、[1]
- 清水一行『捜査一課長』祥伝社、1979年5月、集英社文庫版: 1983年1月、ISBN 4087506460、[2]、[3]、[4]、[5]
- 丹治初彦、幸田律(共著)、市民評論編 『ドキュメント 甲山事件』市民評論社、1978年5月、[6]
- 浜田寿美男『証言台の子どもたち 甲山事件 園児供述の構造』日本評論社、1986年3月、ISBN 4535575940
- 松下竜一『記憶の闇 甲山事件〈1974→1984〉』河出書房新社、1985年4月、ISBN 430900394X、『記憶の闇』(松下竜一 その仕事〈20〉)、2000年6月、ISBN 4309620701
- 山本登志哉編著『生み出された物語 目撃証言・記憶の変容・冤罪に心理学はどこまで迫れるか』北大路書房、2003年5月、ISBN 476282318X
脚注
[編集]- ^ これを実質的な有罪判決と見る向きもあるが、第二次控訴審では「審理不十分という前提での破棄であり、積極的に有罪を認めたわけではない」と判断された。
- ^ その中には中坊公平ら日弁連会長経験者3人が含まれる。
- ^ 松下 1985年
- ^ 田中ひかる (2019年11月26日). “「生理バッジ」大炎上…それでも日本社会の月経観は「進歩」している 生理中かどうかを明かす意味と覚悟”. 現代ビジネス(講談社). 2024年2月27日閲覧。
- ^ 田中ひかる (2017年11月11日). “生理を理由に、無実の女性が殺人犯に仕立て上げられた「甲山事件」”. Wezzy. 2024年2月27日閲覧。
- ^ “荒木潔氏死去 元甲山学園園長”. 共同通信. (2011年1月24日) 2014年7月4日閲覧。