琵琶島城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

琵琶島城(びわじまじょう)は、新潟県柏崎市にあった日本の城

築城年は不明だが、伊豆豪族であった宇佐美氏が、南北朝時代の初期、越後守護職に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入った時に、築城したと言われる[要出典]

鵜川の蛇行地点であり、また、支流との合流地点でもあったために、川が天然の堀を形成。当時としては越後有数の規模であった柏崎湊とも近い上に、川で繋がっていたため、軍事は勿論の事ながら、物資輸送の管理においても重要な場所であった。

宇佐美氏は、度々起こった越後守護の上杉氏と守護代長尾氏の争いにおいては、常に上杉方に組している。これは前出の通り、上杉家の随臣であったためである。

その後、当主宇佐美定満は、長尾氏の臣下となり、長尾景虎軍師として活躍したとされるが、永禄7年(1564年)、謀反の疑いがあった上田長尾氏当主の長尾政景と共に、坂戸城近くの野尻池で溺死した。定満には二人の息子がいたとされるが、謙信の後継者上杉景勝は宇佐美氏を冷遇したようであり、この溺死事件を境に宇佐美氏は没落していくことになった。

宇佐美氏没落後は、前島修理亮が城主となる。前島修理亮は、御館の乱において、上杉景虎支持にまわる。上杉景勝は、琵琶島城近くの旗持城の城将・佐野清左衛門尉宛てに、琵琶島城への警戒、琵琶島城から御館への物流の阻止、そして琵琶島城をどうしても味方に引き入れるように、との手紙を出している。この事から、琵琶島城の軍事的・経済的重要性が高かった事が伺える。結局は、御館への物資輸送を船で行おうとしたが、佐野清左衛門尉の攻撃により失敗し、まもなく降伏・開城した。

乱後は桐沢具繁が入城。在城料として、乱で没落した北条家の所領(現、柏崎市北条)を与えられている。

慶長3年(1598年)の上杉家の会津移封に従い、廃城となった[要出典]

遺構は、昭和初期まで土塁などが残っていたが、河川改修や柏崎農業高校(現在は柏崎総合高校)建築により失われ、今は高校敷地内に石碑と説明板があるのみとなっている。[1]}。

また、甲州武田氏と幾たびも取り合いとなり、宇佐美定満溺死の野尻湖にある野尻城も、琵琶島城とも呼ばれていた[2]

脚注[編集]

  1. ^ 柏崎市の現地案内板など
  2. ^ 平井聖「日本城郭大系〈第8巻〉長野・山梨 」