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狐島吉次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
狐島 吉次
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 嶋本吉次
官位 左衛門大夫
氏族 狐島氏(嶋本氏)
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狐島 吉次(きつねじま よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。紀伊国雑賀荘の土豪で、雑賀衆の一人[1]。名字は狐嶋とも書かれ[注釈 1]嶋本 吉次(しまもと よしつぐ)ともされる[4][注釈 2]

略歴

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吉次は雑賀荘[11]狐島(和歌山市狐島[12])にある左衛門大夫道場(現在の覚円寺[注釈 3])の道場主で、雑賀の一向門徒をまとめる年寄衆の一人だった[8]

永禄5年(1562年)7月、日高川流域の有力者・湯河直春が雑賀衆と起請文を交わしているが[14]、その宛先となる雑賀衆36名の中に「狐嶋 左衛門大夫」と記されている[15]

元亀元年(1570年)に始まる石山合戦では、雑賀衆は本願寺に味方した[16]天正3年(1575年)5月、雑賀の年寄衆である吉次と岡了順、湊高秀、松江定久は、本願寺の法主顕如に対して馳走する旨を誓った起請文を、本願寺の一門一家衆寺院である慈敬寺および常楽寺に差し出している[8]

天正5年(1577年)2月から3月にかけ、雑賀は織田信長により攻められ、雑賀衆は降伏した(紀州征伐[17]。同年3月15日付で、織田信長から鈴木重秀ら7人に宛て赦免状が下されたが、その中に「嶋本左衛門大夫」(吉次)の名もある[18]。こうして降伏した雑賀衆だったが、この後も本願寺への助力を続けた[19]

天正7年(1579年)12月、織田方との講和にあたって、吉次ら雑賀の年寄衆が本願寺に召集された[20]。天正8年(1580年)3月、朝廷からの勅使に対し狼藉を働く者が雑賀衆にいたため、吉次・湊高秀・岡吉正・松江定久の4人の年寄衆と鈴木重秀が連署して、下間頼廉に誓紙を提出している[21]

織田信長との和睦を進める顕如に対し、顕如の子の教如はそれに反対した[22]。天正8年(1580年)閏3月13日、教如から吉次や岡了順、岡吉正に宛てて、織田信長への抗戦を求める書状が送られている[23]。この書状の宛先となっていることから、吉次は教如を支持していたものとみられる[23]

しかし、4月8日、吉次は他の年寄衆を含む9名の雑賀衆と共に、顕如の意向に従うとする誓紙を本願寺年寄衆3人(下間頼廉・仲之頼龍)に提出した[24][25]。4月9日、顕如は大坂本願寺を出て、翌10日に雑賀荘[26]の鷺森に到着し[27]、教如も同年8月2日に大坂を退去し、雑賀へと下っている[28]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『和歌山市史』1巻では「狐島」[2]と「狐嶋」[3]、どちらの表記も見られる。
  2. ^ 織田信長が発給した書状[5][6]篠原松満家中の作成した起請文[7][8]の宛名に「嶋本左衛門大夫」とある。一方、鈴木重秀らと連署した起請文では「狐嶋左衛門大夫吉次」と自署している[9][10]
  3. ^ 明応年間(14921501年)に、島本左衛門太夫直守により創建されたと伝わる[13]

出典

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  1. ^ 鈴木 1984, p. 64.
  2. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 995, 997.
  3. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 991, 993.
  4. ^ 鈴木 1984, p. 173. この箇所では「嶋本(狐島)吉次」と表記されている。
  5. ^ (天正5年)3月15日付織田信長朱印状(「土橋家文書」)。
  6. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1076.
  7. ^ 天正3年6月17日付篠原松満家中起請文(「本願寺文書」)。
  8. ^ a b c 武内善信「天正三年の雑賀年寄衆関係史料」『雑賀一向一揆と紀伊真宗』法藏館、2018年。ISBN 978-4-8318-6250-1 初出:『本願寺史料研究所報』27号、2002年。
  9. ^ 天正8年3月20日付鈴木重秀等連署起請文写(「本願寺文書」)。
  10. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110.
  11. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 873–874.
  12. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年、355–356頁。ISBN 4-04-001300-X 
  13. ^ 和歌山市役所 編『和歌山史要』(増補5版)和歌山市役所、1965年、480頁。全国書誌番号:65003781 
  14. ^ 鈴木 1984, p. 14.
  15. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, pp. 997–999.
  16. ^ 鈴木 1984, pp. 92–97; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 970–980.
  17. ^ 鈴木 1984, pp. 148–159; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 981–984.
  18. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1076; 鈴木 1984, pp. 158–159; 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 984.
  19. ^ 鈴木 1984, pp. 160–172; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 985–991.
  20. ^ 鈴木 1984, p. 172; 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 991.
  21. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110; 鈴木 1984, p. 172; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 992–993.
  22. ^ 鈴木 1984, p. 172; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 994–995.
  23. ^ a b 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 994–995.
  24. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 996–997.
  25. ^ 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』平凡社平凡社新書〉、2004年、127頁。ISBN 4-582-85236-X 
  26. ^ 鈴木 1984, p. 175.
  27. ^ 鈴木 1984, p. 173; 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 997.
  28. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 999.

参考文献

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