「岩倉城 (伯耆国)」の版間の差分
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'''岩倉城'''(いわくらじょう)は、[[鳥取県]][[倉吉市]]岩倉にある[[中世]]の[[日本の城]]([[山城|山城跡]])跡。標高247メートルの岩倉山に所在し、'''岩倉山城'''(いわくらやまじょう)とも記される。 |
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[[鎌倉時代]]に[[小鴨氏]]により築城され、同氏歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも[[平安時代]]末期にまでさかのぼる一族であり、古代は[[伯耆国|伯耆]][[国衙]]の[[在庁官人]]を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々[[守護代]]を務め、[[室町時代]]には[[守護]]・[[山名氏]]の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。 |
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[[大永]]4年([[1524年]])、[[尼子氏]]の伯耆国侵攻([[大永の五月崩れ]])により落城(但し、五月崩れの存在は現在では否定されている)<!-- [[尼子氏]]領から、[[毛利氏]]を頼って、旧城に復した小鴨氏だが、-->。[[永禄]]5年([[1562年]])、[[毛利氏]]を頼った小鴨氏は旧領を回復し、[[南条氏]]の家臣団に組み込まれた。その前後に[[南条宗勝]]の二男・[[南条元清]]が家督を継承したとみられる。 |
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しかし[[天正]]7年([[1579年]])小鴨元清は実兄の[[南条元続]]らと共に毛利氏を離反し織田氏に帰属。毛利氏は[[吉川元長]]を派遣し、圧倒的な軍勢をもって岩倉城に攻撃をしかけたが、南条氏らの協力を得てこれを退けた。しかし、毛利氏の包囲は狭められ、攻撃も一段と激しくなり、天正10年([[1582年]])9月~10月にかけて落城した。城主・小鴨元清は南条元続らと[[京都]]もしくは[[播磨国|播州]]に逃れたとされる。 |
しかし[[天正]]7年([[1579年]])小鴨元清は実兄の[[南条元続]]らと共に毛利氏を離反し織田氏に帰属。毛利氏は[[吉川元長]]を派遣し、圧倒的な軍勢をもって岩倉城に攻撃をしかけたが、南条氏らの協力を得てこれを退けた。しかし、毛利氏の包囲は狭められ、攻撃も一段と激しくなり、天正10年([[1582年]])9月~10月にかけて落城した。城主・小鴨元清は南条元続らと[[京都]]もしくは[[播磨国|播州]]に逃れたとされる。 |
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天正12年([[1584年]])頃にかけて所謂'''京芸和睦'''により城を回復したと見られるが、その後の詳細は不明である。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で主家の南条氏が西軍に属し、改易されたことにより廃城となった。 |
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『[[伯耆民諺記]]』によると、永禄12年([[1569年]])に[[尼子勝久]]ら尼子再興軍に、天正8年([[1580年]])には[[吉川元春]]に、また同10年(1582年)[[吉川元長]]に |
『[[伯耆民諺記]]』によると、永禄12年([[1569年]])に[[尼子勝久]]ら尼子再興軍に、天正8年([[1580年]])には[[吉川元春]]に、また同10年(1582年)には[[吉川元長]]に攻められ激戦地となった。 |
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[[中村一忠]]の[[米子城]]時代に廃城となり、城下の人々が[[米子市|米子]]に移住したところが岩倉町である。 |
[[中村一忠]]の[[米子城]]時代に廃城となり、城下の人々が[[米子市|米子]]に移住したところが岩倉町である。 |
2021年11月10日 (水) 14:17時点における版
岩倉城 (鳥取県) | |
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二の郭跡 | |
別名 | 岩倉山城 |
築城主 | 小鴨元兼 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な城主 | 小鴨氏 |
廃城年 | 1600年(慶長5年) |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度23分04.0秒 東経133度48分38.0秒 / 北緯35.384444度 東経133.810556度座標: 北緯35度23分04.0秒 東経133度48分38.0秒 / 北緯35.384444度 東経133.810556度 |
地図 |
岩倉城(いわくらじょう)は、鳥取県倉吉市岩倉にある中世の日本の城(山城跡)跡。標高247メートルの岩倉山に所在し、岩倉山城(いわくらやまじょう)とも記される。
概要
鎌倉時代に小鴨氏により築城され、同氏歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも平安時代末期にまでさかのぼる一族であり、古代は伯耆国衙の在庁官人を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々守護代を務め、室町時代には守護・山名氏の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。
大永4年(1524年)、尼子氏の伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)により落城(但し、五月崩れの存在は現在では否定されている)。永禄5年(1562年)、毛利氏を頼った小鴨氏は旧領を回復し、南条氏の家臣団に組み込まれた。その前後に南条宗勝の二男・南条元清が家督を継承したとみられる。
しかし天正7年(1579年)小鴨元清は実兄の南条元続らと共に毛利氏を離反し織田氏に帰属。毛利氏は吉川元長を派遣し、圧倒的な軍勢をもって岩倉城に攻撃をしかけたが、南条氏らの協力を得てこれを退けた。しかし、毛利氏の包囲は狭められ、攻撃も一段と激しくなり、天正10年(1582年)9月~10月にかけて落城した。城主・小鴨元清は南条元続らと京都もしくは播州に逃れたとされる。
天正12年(1584年)頃にかけて所謂京芸和睦により城を回復したと見られるが、その後の詳細は不明である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで主家の南条氏が西軍に属し、改易されたことにより廃城となった。
『伯耆民諺記』によると、永禄12年(1569年)に尼子勝久ら尼子再興軍に、天正8年(1580年)には吉川元春に、また同10年(1582年)には吉川元長に攻められ激戦地となった。
中村一忠の米子城時代に廃城となり、城下の人々が米子に移住したところが岩倉町である。
1993年(平成5年)11月に、城跡の山腹での林道敷設工事に先立ち行われた試掘調査では、曲輪と見られる人工平坦面や、土師器や摺鉢片などが検出され、遺構・遺物の残存が確認されている[2]。
脚注
参考文献
- 倉吉市教育委員会 1995「6.岩倉地区(岩倉城跡)」『倉吉市内遺跡分布調査報告書8』(倉吉市文化財調査報告書80)倉吉市
- 鳥取県教育委員会事務局文化課 2004『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』鳥取県