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[[1923年]]から[[1924年]]にかけては[[アメリカ数学会]]会長を務め、数学に対する研究助成増額のために奔走。[[1929年]]にはプリンストン大学数学部の建物となる「ファイン・ホール」の建設が計画されたが、このとき建物のデザインに関して、数学者間の交流を重視したヴェブレンのアイデアが大きく取り入れられることになった。[[1932年]]、[[プリンストン高等研究所]]の立ち上げに参画し、自身も同研究所教授に就任。[[第二次世界大戦]]中は[[コンピュータ]]「[[ENIAC]]」の開発にも参加した。
[[1923年]]から[[1924年]]にかけては[[アメリカ数学会]]会長を務め、数学に対する研究助成増額のために奔走。[[1929年]]にはプリンストン大学数学部の建物となる「ファイン・ホール」の建設が計画されたが、このとき建物のデザインに関して、数学者間の交流を重視したヴェブレンのアイデアが大きく取り入れられることになった。[[1932年]]、[[プリンストン高等研究所]]の立ち上げに参画し、自身も同研究所教授に就任。[[第二次世界大戦]]中は[[コンピュータ]]「[[ENIAC]]」の開発にも参加した。


ヴェブレンは[[射影幾何学|射影幾何]]、[[位相幾何学|トポロジー]]、[[微分幾何学|微分幾何]]の分野において多大な業績を残し、特に微分幾何における仕事は[[相対性理論|相対論]]の研究にも大きな影響を与えた。[[1933年]]に弟子のJ・H・C・ホワイトヘッドと共同で書かれた『微分幾何学の基礎』は、[[多様体#微分可能多様体|微分可能多様体]]の定義を初めて与えたものとして知られている。また、[[1905年]]には[[ジョルダン曲線定理]]を証明したことでも有名。
ヴェブレンは[[射影幾何学|射影幾何]]、[[位相幾何学|トポロジー]]、[[微分幾何学|微分幾何]]の分野において多大な業績を残し、特に微分幾何における仕事は[[相対性理論|相対論]]の研究にも大きな影響を与えた。[[1933年]]に弟子のJ・H・C・ホワイトヘッドと共同で書かれた『微分幾何学の基礎』は、[[多様体#微分多様体|微分可能多様体]]の定義を初めて与えたものとして知られている。また、[[1905年]]には[[ジョルダン曲線定理]]を証明したことでも有名。


死の翌年の[[1961年]]には、ヴェブレンの長年にわたる数学界への貢献を讃え、[[ヴェブレン賞|オズワルド・ヴェブレン幾何学賞]]が創設された。
死の翌年の[[1961年]]には、ヴェブレンの長年にわたる数学界への貢献を讃え、[[ヴェブレン賞|オズワルド・ヴェブレン幾何学賞]]が創設された。

2021年8月11日 (水) 13:16時点における版

オズワルド・ヴェブレン
Oswald Veblen
オズワルド・ヴェブレン(1915年ごろ)
生誕 (1880-06-24) 1880年6月24日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アイオワ州 ディコーラ英語版
死没 1960年8月10日(1960-08-10)(80歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 メイン州 ブルックリン英語版
研究分野 数学
研究機関 プリンストン大学
プリンストン高等研究所
出身校 アイオワ大学
ハーバード大学
シカゴ大学
論文 A System of Axioms for Geometry (1903年)
博士課程
指導教員
E・H・ムーア
博士課程
指導学生
ジェームズ・アレキサンダー英語版
Henry Roy Brahana
アロンゾ・チャーチ
Philip Franklin
ハロルド・ホテリング
Howard Hawks Mitchell
Robert Lee Moore
J・H・C・ホワイトヘッド英語版
プロジェクト:人物伝
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オズワルド・ヴェブレン(Oswald Veblen, 1880年6月24日 - 1960年8月10日)は、アメリカ数学者。 専門は幾何学ヴェブレン階層などで知られる。

人物

『有閑階級の理論』などで知られる経済学者ソースティン・ヴェブレンの甥として、アイオワ州ディコーラに生まれる。

1898年アイオワ大学で学士号取得後、1900年にはハーヴァード大学でも学士号を取得。その後シカゴ大学大学院で学び、1903年イライアキム・ムーアの指導のもと博士号を取得した。以後、1905年から1932年までプリンストン大学数学部で教え、この間にジェームズ・アレキサンダーアロンゾ・チャーチJ・H・C・ホワイトヘッドら多くの弟子を育てた。1910年には教授に就任。第一次世界大戦に際しては軍務につき、少佐の階級を帯びて弾道計算に携わった。

1923年から1924年にかけてはアメリカ数学会会長を務め、数学に対する研究助成増額のために奔走。1929年にはプリンストン大学数学部の建物となる「ファイン・ホール」の建設が計画されたが、このとき建物のデザインに関して、数学者間の交流を重視したヴェブレンのアイデアが大きく取り入れられることになった。1932年プリンストン高等研究所の立ち上げに参画し、自身も同研究所教授に就任。第二次世界大戦中はコンピュータENIAC」の開発にも参加した。

ヴェブレンは射影幾何トポロジー微分幾何の分野において多大な業績を残し、特に微分幾何における仕事は相対論の研究にも大きな影響を与えた。1933年に弟子のJ・H・C・ホワイトヘッドと共同で書かれた『微分幾何学の基礎』は、微分可能多様体の定義を初めて与えたものとして知られている。また、1905年にはジョルダン曲線定理を証明したことでも有名。

死の翌年の1961年には、ヴェブレンの長年にわたる数学界への貢献を讃え、オズワルド・ヴェブレン幾何学賞が創設された。