「キルデベルト1世」の版間の差分
記事の整理 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
{{複数の問題 |
|||
| 出典の明記 = 2016年10月 |
|||
| 脚注の不足 = 2016年10月 |
|||
}} |
|||
[[image:Jean-Louis Bézard - Childebert Ier roi de Francs (mort en 558).jpg|thumb|キルデベルト1世、ジャン=ルイ・ベザール(Jean-Louis Bézard)画、1838年]] |
[[image:Jean-Louis Bézard - Childebert Ier roi de Francs (mort en 558).jpg|thumb|キルデベルト1世、ジャン=ルイ・ベザール(Jean-Louis Bézard)画、1838年]] |
||
[[File:Roi_Childebert_Louvre_ML93.jpg|thumb|キルデベルト1世の石像、13世紀]] |
[[File:Roi_Childebert_Louvre_ML93.jpg|thumb|キルデベルト1世の石像、13世紀]] |
||
17行目: | 21行目: | ||
キルデベルト1世は自らが建立したパリの聖ヴァンサン[[修道院]](後に[[サン=ジェルマン=デ=プレ教会|サン=ジェルマン=デ=プレ修道院]])に葬られた。この修道院はその後、[[メロヴィング朝|メロヴィング家]]の霊廟に定められたので、キルデベルトは同修道院に埋葬された王家の最初の人物となった。彼の妻と娘たちに関しては567年以降の消息は不明である。未亡人ウルトゥロゴタも、死後に夫と同じ修道院に埋葬されている。 |
キルデベルト1世は自らが建立したパリの聖ヴァンサン[[修道院]](後に[[サン=ジェルマン=デ=プレ教会|サン=ジェルマン=デ=プレ修道院]])に葬られた。この修道院はその後、[[メロヴィング朝|メロヴィング家]]の霊廟に定められたので、キルデベルトは同修道院に埋葬された王家の最初の人物となった。彼の妻と娘たちに関しては567年以降の消息は不明である。未亡人ウルトゥロゴタも、死後に夫と同じ修道院に埋葬されている。 |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
27行目: | 35行目: | ||
* Eugen Ewig: ''Die Merowinger und das Frankenreich.'' 5. aktualisierte Auflage. Kohlhammer, Stuttgart 2006, ISBN 3-17-019473-9 (''Kohlhammer-Urban-Taschenbücher'' 392). |
* Eugen Ewig: ''Die Merowinger und das Frankenreich.'' 5. aktualisierte Auflage. Kohlhammer, Stuttgart 2006, ISBN 3-17-019473-9 (''Kohlhammer-Urban-Taschenbücher'' 392). |
||
* Erich Zöllner: ''Geschichte der Franken bis zur Mitte des sechsten Jahrhunderts''. Auf der Grundlage des Werkes von Ludwig Schmidt unter Mitwirkung von Joachim Werner neu bearbeitet. Beck, München 1970, ISBN 3-406-02211-1. |
* Erich Zöllner: ''Geschichte der Franken bis zur Mitte des sechsten Jahrhunderts''. Auf der Grundlage des Werkes von Ludwig Schmidt unter Mitwirkung von Joachim Werner neu bearbeitet. Beck, München 1970, ISBN 3-406-02211-1. |
||
== 関連項目 == |
|||
*[[メロヴィング朝]] |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2016年10月29日 (土) 17:44時点における版
キルデベルト1世(Childebert I.、496年頃 - 558年12月23日 パリ)は、フランク王クロヴィス1世とその王妃クロティルデの間の次男(父にとっては三男)。パリ王(在位511年 - 558年)。
生涯
511年に父の死に伴い、3人の兄弟とともに遺領を分割相続し、パリ王国を受け取った。パリ王国はソンム川とロワール川の間に挟まれた地域を領土としており、ブルターニュ、ノルマンディー、ブリーの諸地方およびアキテーヌ地方西部から構成されていた。
523年、キルデベルトと同腹の兄弟たちは、母の教唆でブルグント王国を攻めた。この戦争中に兄のオルレアン王クロドメールが戦死すると、キルデベルトと弟のソワソン王クロタール1世は、クロドメールの幼い遺児たちから王国を横取りしようと企んだ。キルデベルトが母クロティルデに引き取られていた甥たちをおびき出し、クロタールが2人の甥を自らの手で刺殺した。キルデベルトは弟とオルレアン王国を折半し、領土を拡げた。
531年、妹クロティルデと夫の西ゴート王アマラリックとの不和を知ったキルデベルトは、アマラリックを攻めて彼をナルボンヌで破っている。
キルデベルトと弟クロタールは532年に2度目のブルグント遠征を開始し、534年にブルグント王ゴドマール2世を敗死させ、ブルグントをフランク王国領に併合した。キルデベルトはブルグントの一部とプロヴァンスを獲得し、その領土は一気に拡大した。
キルデベルトは533年頃に異母兄のランス王テウデリク1世が死ぬと、またも弟クロタールと計らってその遺領を奪おうとしたが、テウデリクの息子テウデベルト1世の根回しによって失敗した。その後、息子のいないキルデベルトは強力な甥のテウデベルト1世を養子にして後継ぎとして扱ったが、テウデベルトは547年(ないし548年)に死去した。またキルデベルトとテウデベルトは共同でクロタール1世を攻めたが、不首尾に終わった。
キルデベルトはゴート族出身と思われるウルトゥロゴタ(Ulthrogotha)と結婚し、2人の娘クロドシンダ(Chrodosinda)とクロドベルガ(Chrodoberga)をもうけたが、男子には恵まれなかった。このため相続人がいないまま558年に死去し、弟のクロタール1世が領土を継承した。妻と娘はクロタールによって宮廷を追われた。
キルデベルト1世は自らが建立したパリの聖ヴァンサン修道院(後にサン=ジェルマン=デ=プレ修道院)に葬られた。この修道院はその後、メロヴィング家の霊廟に定められたので、キルデベルトは同修道院に埋葬された王家の最初の人物となった。彼の妻と娘たちに関しては567年以降の消息は不明である。未亡人ウルトゥロゴタも、死後に夫と同じ修道院に埋葬されている。
脚注
参考文献
- トゥールのグレゴリウス(著)、杉本正俊(訳)『フランク史 10巻の歴史』 新評論、2007年
- 鈴木康久『西ゴート王国の遺産』 中央公論新社、1996年
以下は日本語訳にあたり直接参照していません。
- Eugen Ewig: Die fränkischen Teilungen und Teilreiche. (511–613). Steiner, Wiesbaden 1953 (Akademie der Wissenschaften und der Literatur, Mainz - Abhandlungen der Geistes- und Sozialwissenschaftlichen Klasse 1952, 9, ISSN 0002-2977).
- Eugen Ewig: Die Merowinger und das Frankenreich. 5. aktualisierte Auflage. Kohlhammer, Stuttgart 2006, ISBN 3-17-019473-9 (Kohlhammer-Urban-Taschenbücher 392).
- Erich Zöllner: Geschichte der Franken bis zur Mitte des sechsten Jahrhunderts. Auf der Grundlage des Werkes von Ludwig Schmidt unter Mitwirkung von Joachim Werner neu bearbeitet. Beck, München 1970, ISBN 3-406-02211-1.
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、キルデベルト1世に関するメディアがあります。