「松前道広」の版間の差分
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宝暦4年(1754年)、7代藩主・[[松前資広]]の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。[[明和]]2年([[1765年]])10月11日、父資広の死去により、家督を相続する。同年10月15日、将軍[[徳川家治]]にお目見えする。同年12月15日、従五位下志摩守に叙任する。[[一橋治済]]、伊達家・島津家など反幕閣の人々と交友し、[[吉原遊廓|吉原]]の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。 |
宝暦4年(1754年)、7代藩主・[[松前資広]]の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。[[明和]]2年([[1765年]])10月11日、父資広の死去により、家督を相続する。同年10月15日、将軍[[徳川家治]]にお目見えする。同年12月15日、従五位下志摩守に叙任する。[[一橋治済]]、[[伊達氏|伊達家]]・[[島津氏|島津家]]など反幕閣の人々や[[国学]]者で幕府から目を付けられていた[[高山彦九郎]]と交友し<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.244</ref>、[[吉原遊廓|吉原]]の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。 |
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対外的には強硬で、[[ロシア帝国|ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱([[クナシリ・メナシの戦い]])に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した。 |
対外的には強硬で、[[ロシア帝国|ロシア]]からの通商要請を拒否。[[寛政]]元年([[1789年]])には、[[国後島]]や目梨地方で起こった[[アイヌ]]の反乱([[クナシリ・メナシの戦い]])に[[新井田正寿]]・[[松井広次]]らを派遣して鎮圧した。のち寛政8年([[1796年]])、[[イギリス]]船・[[ウィリアム・ロバート・ブロートン#プロヴィデンス号の航海|プロビデンス号]]がアプタ沖(現北海道[[虻田郡]][[洞爺湖町]])に出没した時も、すでに隠居していたにも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣した<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.244、なお道広は自身を「北方の守護者」と認識していたという(「松前大炊介殿示家臣書」([[東京大学史料編纂所]]蔵))</ref>。 |
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寛政4年([[1792年]])10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。隠居後、通称を大炊頭、美作守に改める。文化4年([[1807年]])3月26日、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎を命じられる。文政5年([[1821年]])3月18日、謹慎を解かれる。天保3年(1832年)6月20日、死去。 |
寛政4年([[1792年]])10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。隠居後、通称を大炊頭、美作守に改める。文化4年([[1807年]])3月26日、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる<ref>『北海道戦国史と松前氏』p.245、『松前町史 通説編』第1巻下</ref>。文政5年([[1821年]])3月18日、謹慎を解かれる。天保3年(1832年)6月20日、[[江戸]]で死去。 |
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== 参考文献 == |
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*松前町『概説松前の歴史』 |
* 松前町『概説松前の歴史』 |
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* 新藤透『北海道戦国史と松前氏』[[洋泉社]]、[[2016年]][[2月19日]] ISBN 978-4-8003-0681-4 |
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== 脚注 == |
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{{松前藩主|8代|1765年 - 1792年}} |
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2016年7月20日 (水) 02:26時点における版
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦4年1月17日(1754年2月8日) |
死没 | 天保3年6月20日(1832年7月17日) |
改名 | 源助、外記、章広、幸広 |
戒名 | 松吟院 |
墓所 | 北海道松前郡松前町 大洞山法憧寺 |
官位 | 従五位下、美作守、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 蝦夷松前藩主 |
氏族 | 松前氏 |
父母 | 父:松前資広、母:八条隆英(櫛笥賀子弟)娘・弁子 |
兄弟 |
道広、照子(松前等広室)、池田頼完、 難波武広、秀子(蠣崎広命室)、蠣崎広文、蠣崎広年、 玉子(松前広典室、後横井重賢室)、 古田信真 |
妻 |
正室:花山院常雅娘・知子(敬子) 側室:平田氏 |
子 | 章広、男子、蠣崎広匡、竹子(藤倉保春室)、増子(小林義明室)、女子、杉村治義、広純、幸之助、連之助、澄子、岩子、琴子 |
松前 道広(まつまえ みちひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷地松前藩の8代藩主。
生涯
宝暦4年(1754年)、7代藩主・松前資広の長男として生まれる。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったという。明和2年(1765年)10月11日、父資広の死去により、家督を相続する。同年10月15日、将軍徳川家治にお目見えする。同年12月15日、従五位下志摩守に叙任する。一橋治済、伊達家・島津家など反幕閣の人々や国学者で幕府から目を付けられていた高山彦九郎と交友し[1]、吉原の遊女を妾にするなど遊興費も多かった。そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたという。
対外的には強硬で、ロシアからの通商要請を拒否。寛政元年(1789年)には、国後島や目梨地方で起こったアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)に新井田正寿・松井広次らを派遣して鎮圧した。のち寛政8年(1796年)、イギリス船・プロビデンス号がアプタ沖(現北海道虻田郡洞爺湖町)に出没した時も、すでに隠居していたにも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣した[2]。
寛政4年(1792年)10月28日、隠居し、長男章広に家督を譲った。隠居後、通称を大炊頭、美作守に改める。文化4年(1807年)3月26日、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる[3]。文政5年(1821年)3月18日、謹慎を解かれる。天保3年(1832年)6月20日、江戸で死去。
参考文献
- 松前町『概説松前の歴史』
- 新藤透『北海道戦国史と松前氏』洋泉社、2016年2月19日 ISBN 978-4-8003-0681-4