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松前良広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松前良広
時代 江戸時代後期
生誕 文政6年5月23日1823年7月1日[1]
死没 天保10年8月24日1839年10月1日
改名 隆之助(幼名)、良広
墓所 吉祥寺
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前見広村山信敏
兄弟 良広昌広
小笠原長貴
養子:昌広
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松前 良広(まつまえ よしひろ)は、江戸時代後期の大名蝦夷地松前藩10代藩主[注釈 1]

略歴

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文政6年(1823年[1]、9代藩主・松前章広の次男・松前見広の長男として誕生。文政10年(1827年)11月16日、父・見広の死去により、祖父・章広の嫡孫となる。天保4年(1833年)8月11日に松前を出発し、同年9月7日に江戸に到着する。天保5年12月14日、祖父・章広の死去により、家督を継いだ。病弱のため、将軍への御目見を果たせず、官位も与えられなかった。

天保10年(1839年)、親族にあたる池田政善柳生俊章一柳末延と在江戸の親族である松前八左衛門、松前左近、松前七郎等が「藩主良広病弱のため蝦夷地統治困難」と言う理由を掲げて松前藩の領地返還を幕府に申し立てるという事件が勃発する。祖父・章広の代に苦心の末に復領したばかりの蝦夷地を親族達が放棄させようとした真意は不明である[4]。なおこの領地”返還”運動は幕府が取り上げなかったため事なきを得た。

同年8月24日、死去した。享年17。子がなかったため、弟・昌広が養子となり家督を継いだ。

系譜

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父母

婚約者

養子

注釈

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  1. ^ 松前氏(蠣崎氏)については江戸初期の松前盛広の扱いが文献により異なるため代数の加算に違いがみられる[2]。『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは盛広を藩主と認めていないが、『松前家記』などでは盛広も藩主として数えている[2]。本項では松前慶広を藩祖とする歴代藩主の代数に関して盛広を含まない代数となっている。なお、蠣崎信広(武田信広)を初代とする歴代当主の代数に関して、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説では盛広を6代として含めており、良広を15代目の当主とする[3]。詳細は蠣崎氏を参照。

脚注

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  1. ^ a b 『松前家記』
  2. ^ a b 福島町の文化財」『福島町』。
  3. ^ 北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。
  4. ^ 『北海道戦国史と松前氏』p.247-248