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== 生涯 ==
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[[皇太子]]だった長兄の[[元恂]]は、父・[[孝文帝]]が推し進める漢化政策に反対し、反乱を企てようとしたため、皇太子の地位を廃された挙句に父帝によって誅殺された、あいは自殺した。そのため元恪が代わりに皇太子に立てられ[[499年]]孝文帝によって17歳で即位した。当初は、[[宗室]]で叔父の咸陽王・[[元キ|元禧]][[献文帝]]の次子で孝文帝の次弟)、[[尚書令]][[王粛 (南北朝)|王粛]]らの補佐を受けたという
[[483年]]閏4月、[[孝文帝]]の次男として生まれ。[[496年]]12月に長兄の[[元恂]][[皇太子]]位を廃されると、翌[[497年]]1月に元恪が皇太子に立てられた。[[499年]]4月、孝文帝去すると、17歳で即位した。当初は、咸陽王[[元禧]]・任城[[元澄]]北海王[[元]]・広陽王[[元嘉 (北魏)|元嘉]][[尚書令]][[王粛 (南北朝)|王粛]]・吏部尚書[[宋弁]]ら6人大臣の輔弼を受けた。


在世中、しばしば[[梁 (南朝)|梁]]を攻撃して[[四川省|四川]]方面に領土を拡大し、北方では[[柔然]]に大打撃を与えた。だが、熱心な[[仏教]]信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。[[501年]](景明二年)、国政を側近や[[外戚]]の[[高肇]]に委ねて親政を始めた。て宗室遠ざけという。[[508年]]高肇の進言で、皇族の長老である叔父の元禧とその末弟の彭城王[[元キョウ|元勰]]、また異母弟の京兆王・[[元愉]]ら多くの皇族諸王を誅殺した。
[[501年]]、国政を側近や[[外戚]]の[[高肇]]に委ねて親政を始めた。これに反発する叔父の咸陽王元禧反乱計画したため、処断した。[[508年]]、異母弟の京兆王[[元愉]]が冀州で反乱を起こすと、これを鎮圧し、高肇の進言で叔父の彭城王[[元キョウ|元勰]]を誅殺した。


在世中、しばしば[[梁 (南朝)|梁]]を攻撃して[[四川省|四川]]方面に領土を拡大し、北方では[[柔然]]に大打撃を与えた。だが、熱心な[[仏教]]信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。
父と同じく33歳の若さで崩御し、[[洛陽]]郊外に葬られた。

[[515年]]2月、33歳の若さで崩御し、[[洛陽]]郊外に葬られた。


== 陵墓 ==
== 陵墓 ==

2015年6月15日 (月) 05:18時点における版

宣武帝 拓跋恪
北魏
第8代皇帝
王朝 北魏
在位期間 499年 - 515年
姓・諱 元恪
諡号 宣武皇帝
廟号 世宗
生年 483年
没年 515年
孝文帝(第2子)
高貴人
陵墓 景陵
年号 景明 : 500年 - 503年
正始 : 504年 - 508年
永平 : 508年 - 512年
延昌 : 512年 - 515年

宣武帝(せんぶてい)は、北朝北魏の第8代皇帝

生涯

483年閏4月、孝文帝の次男として生まれた。496年12月に長兄の元恂皇太子位を廃されると、翌497年1月に元恪が皇太子に立てられた。499年4月、孝文帝が死去すると、17歳で即位した。当初は、咸陽王元禧・任城王元澄・北海王元詳・広陽王元嘉尚書令王粛・吏部尚書宋弁ら6人の大臣の輔弼を受けた。

501年、国政を側近や外戚高肇に委ねて親政を始めた。これに反発する叔父の咸陽王元禧が反乱を計画したため、処断した。508年、異母弟の京兆王元愉が冀州で反乱を起こすと、これを鎮圧し、高肇の進言で叔父の彭城王元勰をも誅殺した。

在世中、しばしばを攻撃して四川方面に領土を拡大し、北方では柔然に大打撃を与えた。だが、熱心な仏教信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。

515年2月、33歳の若さで崩御し、洛陽郊外に葬られた。

陵墓

陵墓は他の邙山陵墓群とともに、全国重点文物保護単位に指定されている。1992年に盗掘に遭ったため、遺跡保護のため緊急発掘された。版築で作られた円形の稜は径112メートル、高さ約23~24メートルあり、中心の地下にある方形の墓室から南に甬道が伸びている。延長線上の入口に当たる所に高さ4メートルの巨大な石人像があったが、盗掘により現在は首が失われている。

宗室

后妃

  1. ^ 《第一貴嬪司馬顯姿墓志銘》