コンテンツにスキップ

「河野安通志」の版間の差分

編集の要約なし
卒業後は、友人の経営する呉服店で勤務したほか、横浜商業、早稲田大学などで簿記の講師を務めている。また、この時早稲田野球部の監督(専任ではないので、正式記録には監督として記録されていない)も務めた。
 
[[1911年]](明治44年)、[[東京朝日新聞]]が展開した[[野球害毒論]]キャンペーンの一つとして、『東京朝日新聞』[[9月5日]]号おけ、「旧選手の懺悔」([[名倉聞一]])と題し、河野が野球の害毒を懺悔す談話が掲載された。河野は[[捏造]]であると抗議したが無視され、『[[東京日日新聞]]』[[9月8日]]号に反論を投稿した。『東京朝日新聞』は、[[9月10日]]号にようやく河野の反論を掲載した。さらに、野球害毒論の「野球をやると利き手が異常に発達するので有害」という論拠主張、[[9月17日]]、[[読売新聞社]]主催の「野球問題演説会」に出席し、自らの両手を挙げて反論した。
 
=== プロ野球創設と挫折 ===
匿名利用者