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'''大和 岩雄'''('''おおわ いわお''' [[1928年]] - )は[[長野県]]出身の[[編集者]]、出版事業家、[[古代史]]研究家。[[大和書房]](だいわしょぼう)および[[青春出版社]]の創業者。 |
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[[長野県]][[上伊那郡]][[高遠町]](現在の[[伊那市]])にて、[[江戸時代]]から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、[[高等小学校]]卒業後、[[名古屋市]]の[[三菱重工業]]に[[旋盤工]]として就職する予定であったが、[[1942年]]、官費で学べる長野師範学校([[信州大学]][[教育学部]])に入学し、[[1948年]]に卒業すると[[長野県]][[下伊那郡]]大鹿村立鹿塩中学校に赴任、[[国語]]と[[音楽]]を教えていた。[[1948年]]12月に退職し、[[長野市]]に移住。ここで[[山本茂実]]主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。営業部員に[[小澤和一]]がいた。 |
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「葦」の成功により[[1950年]]に上京。「葦」の編集と併行して、[[1951年]]、文理書院と協力して「[[人生手帖]]」を1000部で創刊。やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。[[1955年]]に「人生手帖」が7万部を記録。この急成長ぶりに風当たりが強く、[[讀賣新聞]]社会部から"[[自衛隊]]に対する[[日本共産党|日共]]の秘密工作機関誌「人生手帖」"と虚偽報道されたこともある。これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、[[1956年]]に編集長を辞任。同年5月、小澤和一と共に[[青春出版社]]を設立。実用書路線で成功を収める。 |
「葦」の成功により[[1950年]]に上京。「葦」の編集と併行して、[[1951年]]、文理書院と協力して「[[人生手帖]]」を1000部で創刊。やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。[[1955年]]に「人生手帖」が7万部を記録。この急成長ぶりに風当たりが強く、[[讀賣新聞]]社会部から"[[自衛隊]]に対する[[日本共産党|日共]]の秘密工作機関誌「人生手帖」"と虚偽報道されたこともある。これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、[[1956年]]に編集長を辞任。同年5月、小澤和一と共に[[青春出版社]]を設立。実用書路線で成功を収める。 |
2008年2月14日 (木) 02:41時点における版
大和 岩雄(おおわ いわお 1928年 - )は長野県出身の編集者、出版事業家、古代史研究家。大和書房(だいわしょぼう)および青春出版社の創業者。
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)にて、江戸時代から続く呉服商の家庭に生まれる。生家が没落したため、高等小学校卒業後、名古屋市の三菱重工業に旋盤工として就職する予定であったが、1942年、官費で学べる長野師範学校(信州大学教育学部)に入学し、1948年に卒業すると長野県下伊那郡大鹿村立鹿塩中学校に赴任、国語と音楽を教えていた。1948年12月に退職し、長野市に移住。ここで山本茂実主宰の人生誌「葦」に参加。第4号以降、同誌の編集長となる。営業部員に小澤和一がいた。
「葦」の成功により1950年に上京。「葦」の編集と併行して、1951年、文理書院と協力して「人生手帖」を1000部で創刊。やがて「葦」が政治的に先鋭化したため、同誌を去る。1955年に「人生手帖」が7万部を記録。この急成長ぶりに風当たりが強く、讀賣新聞社会部から"自衛隊に対する日共の秘密工作機関誌「人生手帖」"と虚偽報道されたこともある。これに対して大和は「人生手帖」紙上で反駁したが、1956年に編集長を辞任。同年5月、小澤和一と共に青春出版社を設立。実用書路線で成功を収める。
1960年、社の経営権を小澤に譲渡。創刊まもない「青春の手帖」誌と共に新たな出版社を設立。1963年7月、大和書房と改名。1964年、不治の病で死を間近にした女子大生とその恋人との往復書簡集「愛と死をみつめて」を出してミリオンセラーとなる。
1966年11月14日に母を亡くしたことを機に、38歳の若さで編集者を引退し、以後は経営に専念する。
1974年から古代史研究に熱中し、季刊誌「東アジアの古代文化」を発行。以後、38冊の古代史研究書を自ら著し刊行する。