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「ダイナ (曲)」の版間の差分

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日本における「ダイナ」の創唱は、[[1934年|1934年(昭和9年)]]5月に[[日本コロムビア|コロムビア]]から発売された、[[中野忠晴]]と[[コロムビア・リズム・ボーイズ]]による。訳詞は中野忠晴が行った。
日本における「ダイナ」の創唱は、[[1934年|1934年(昭和9年)]]5月に[[日本コロムビア|コロムビア]]から発売された、[[中野忠晴]]と[[コロムビア・リズム・ボーイズ]]による。訳詞は中野忠晴が行った。


中野盤に遅れて、同年[[12月]]に[[ディック・ミネ]]のデビュー曲として[[テイチクレコード]]から発売された。作詞は三根耕一([[ディック・ミネ]])。[[立教大学]]出身の無名バンドマンだった三根徳一が、ディック・ミネと名乗り、自分で訳詞し、[[B面]]曲の「[[黒い瞳]]」と共にテイチクレコード第一号ヒット曲となった。なお、三根耕一というのはペンネームである。ディック・ミネの「ダイナ」は100万枚の売上を記録した<ref>[[南博]](編)『日本モダニズムの研究 思想・生活・文化』ブレーン出版、1982年、279頁。ISBN 4-89242-108-1。</ref><ref>『[[AERA]]』1991年6月25日付。</ref>。
中野盤に遅れて、同年[[12月]]に[[ディック・ミネ]]のデビュー曲として[[テイチクレコード]]から発売された。作詞は三根耕一([[ディック・ミネ]])。[[立教大学]]出身の無名バンドマンだった三根徳一が、ディック・ミネと名乗り、自分で訳詞し、[[B面]]曲の「[[黒い瞳]]」と共にテイチクレコード第一号ヒット曲となった。なお、三根耕一というのはペンネームである。ディック・ミネの「ダイナ」は100万枚の売上を記録した<ref>[[南博 (社会心理学者)|南博]](編)『日本モダニズムの研究 思想・生活・文化』ブレーン出版、1982年、279頁。ISBN 4-89242-108-1。</ref><ref>『[[AERA]]』1991年6月25日付。</ref>。


;その他
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2023年10月22日 (日) 22:32時点における最新版

Mills Brothers, 1932年

ダイナ (Dinah)」は、アメリカ合衆国ポピュラー・ソングである。

概要[編集]

ハリー・アクスト Harry Akst作曲し、サム・M・ルイス Sam M. Lewisジョー・ヤング Joe Young とが作詞した。この歌は1925年に発表された。この歌はその年にピッツバーグで、ミュージカル猿飛カンター(原題:Kid Boots)」に取り入れられ、主役のエディー・カンター Eddie Cantor が歌った。

「ダイナ」は、その時からずっとジャズバンド歌手に非常に気に入られ、エセル・ウォーターズ Ethel Watersビング・クロスビーザ・ミルス・ブラザーズ The Mills Brothers のバージョンは非常に人気があった。ボズウェル・シスターズ The Boswell Sistersルイ・アームストロングデューク・エリントンキャブ・キャロウェイベニー・グッドマンテンペランス・セブン The Temperance Seven らがカバーし、セロニアス・モンクもカバーした。

ザ・チェンバーズ・ブラザーズ The Chambers Brothers1966年のカバーはシングルとしてリリースされ、後にアルバム「The Time Has Come」のボーナス・トラックに再収録された。

日本におけるカバー[編集]

日本における「ダイナ」の創唱は、1934年(昭和9年)5月にコロムビアから発売された、中野忠晴コロムビア・リズム・ボーイズによる。訳詞は中野忠晴が行った。

中野盤に遅れて、同年12月ディック・ミネのデビュー曲としてテイチクレコードから発売された。作詞は三根耕一(ディック・ミネ)。立教大学出身の無名バンドマンだった三根徳一が、ディック・ミネと名乗り、自分で訳詞し、B面曲の「黒い瞳」と共にテイチクレコード第一号ヒット曲となった。なお、三根耕一というのはペンネームである。ディック・ミネの「ダイナ」は100万枚の売上を記録した[1][2]

その他

脚注[編集]

  1. ^ 南博(編)『日本モダニズムの研究 思想・生活・文化』ブレーン出版、1982年、279頁。ISBN 4-89242-108-1
  2. ^ AERA』1991年6月25日付。

外部リンク[編集]