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スマッツは[[1899年]]、トランスヴァール共和国が[[イギリス]]に突きつけた最後通牒を起草した。
スマッツは[[1899年]]、トランスヴァール共和国が[[イギリス]]に突きつけた最後通牒を起草した。


[[ボーア戦争]]が開戦すると、スマッツはトランスヴァール軍の指揮官の一人としてイギリス軍と戦い、首都陥落後も[[ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク]]や[[ルイス・ボータ]]、クース・デ・ラ・レイらと抗戦を続け、戦争末期にはケープ植民地の奥深くを転戦してケープのアフリカーナーの反乱を起こそうとしたが、これは失敗に終わった。
[[ボーア戦争]]が開戦すると、スマッツはトランスヴァール軍の指揮官の一人としてイギリス軍と戦い、首都陥落後も[[ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク]]や[[ルイス・ボータ]]、クース・デ・ラ・レイらと抗戦を続け、戦争末期にはケープ植民地の奥深くを転戦してケープのアフリカーナーの反乱を起こそうとしたが、これは失敗に終わった。ボーア戦争敗北後、スマッツはボータとともにトランスヴァールのアフリカーナーの指導者となり、オレンジ川植民地(旧[[オレンジ自由国]])のアフリカーナー指導者となったヘルツォークと協力して自治回復の運動を繰り広げた。


ボー戦争敗北後、スマッツはボータとともにトランスヴァールのアフリカーナーの指導者となり、オレンジ川植民地(旧[[オレンジ自由国]])アフリカーナー指導者となったルツォーク協力して自治回復運動繰り広げた。[[1907年]]の選挙でアフリカーナー勢力は大勝し、スマッツはトランヴァル植民地指導者となった。
[[1907年]]の選挙でフリカーナー勢力は大勝し、スマッツはトランスヴァール植民地の指導者となった。トランスヴァーの政権を握ると、スマッツとボータは南アフリカ4植民地合同提唱し、各植民地も賛同。[[1910年]]に[[南アフリカ連邦]]が成立すると、スマッツはルイ・ボタ内閣内相及び国防相となった。彼は様々な内閣に参加し、1919年から1924年と1939年から1948年に南アフリカ連邦の首相となった。


[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]時にイギリスの[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]となる。当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持し、首相として両大戦の間の幾年間に、[[アパルトヘイト]]を進めたかった大部分の[[アフリカーナー]]に反対した。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、彼はファーガン委員会を設立した。1950年死去する。
トランスヴァールの政権を握ると、スマッツとボータは南アフリカ4植民地の合同を提唱し、各植民地も賛同。[[1910年]]に[[南アフリカ連邦]]が成立すると、スマッツはルイス・ボータ内閣の内相及び国防相となった。


== 人物 ==
彼は様々な内閣に参加し、1919年から1924年と1939年から1948年に南アフリカ連邦の首相となった。
スマッツは、第二次[[ボーア戦争]]の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間は[[ドイツ]]に対して南アフリカの軍隊を仕向け[[南西アフリカ]]を占拠し東アフリカでは[[イギリス軍]]を指揮した。[[1917年]]から[[1919年]]まで英国戦争内閣の一員であり[[イギリス空軍]]創設にも助力している。第二次世界大戦の間は彼は[[1941年]]に[[イギリス軍]]の[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]となり、[[ウィンストン・チャーチル]]の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは大戦の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては[[国際連盟]]と[[国際連合]]の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟規約と[[国連憲章]]に署名する唯一の人物でもあった。イギリスと[[イギリス連邦]]を樹立する時、いままでの関係を再検討した。


スマッツは、ユダヤ人移民を規制した[[マクドナルド白書]]に反対し<ref>Crossman, R.H.S. (1960). A nation reborn;: A personal report on the roles played by Weizmann, Bevin and Ben-Gurion in the story of Israel. Atheneum Publishers. ASIN B0007DU0X2. p.76</ref>、ユダヤ人の[[シオニズム]]運動に協力的であった<ref>Klieman, Aaron S. (1991). Recognition of Israel: An End & a New Beginning: An End and a New Beginning. Routledge, p. 16. ISBN 978-0824073619.</ref><ref>Hunter, Jane (1987). Israeli Foreign Policy: South Africa and Central America. Spokesman Books. pp 21–22 ISBN 978-0851244853.</ref>。1949年には[[イスラエル]]の初代大統領となった[[ハイム・ヴァイツマン]]の75歳の誕生日を祝う[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|ハーバート・サミュエル]]主催の夕食会に参加してヴァイツマンを[[モーセ]]や[[ダビデ]]と比較して称えた<ref>{{Cite web |url=https://www.jta.org/1949/11/25/archive/emergence-of-israel-hailed-by-ex-premier-smuts-at-london-dinner-honoring-weizmann|title=Emergence of Israel Hailed by Ex-premier Smuts at London Dinner Honoring Weizmann
第一次世界大戦と第二次世界大戦時にイギリスの[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]となる。
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当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。国際連盟のパレスチナ委任統治決議でバルフォア宣言の条文を使うことを提案し、ユダヤ人移民を規制した[[マクドナルド白書]]に反対する<ref>Crossman, R.H.S. (1960). A nation reborn;: A personal report on the roles played by Weizmann, Bevin and Ben-Gurion in the story of Israel. Atheneum Publishers. ASIN B0007DU0X2. p.76</ref>などユダヤ人の[[シオニズム]]運動に協力的であり<ref>Klieman, Aaron S. (1991). Recognition of Israel: An End & a New Beginning: An End and a New Beginning. Routledge, p. 16. ISBN 978-0824073619.</ref><ref>Hunter, Jane (1987). Israeli Foreign Policy: South Africa and Central America. Spokesman Books. pp 21–22 ISBN 978-0851244853.</ref>、[[ハイム・ヴァイツマン]]から「モーセ」と称えられたように<ref>Lockyer, Norman. Nature, digitized 5 February 2007. Nature Publishing Group.</ref>[[イスラエル]]では恩人としていくつかの通りや[[キブツ]]に名前がついている<ref>Beit-Hallahmi, Benjamin (1988). The Israeli Connection: Whom Israel Arms and Why. I.B. Tauris. pp 109-111. ISBN 978-1850430698.</ref>。1926年に刊行している『[[ホーリズム]]と進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。首相として両大戦の間の幾年間に、[[アパルトヘイト]]を進めたかった大部分の[[アフリカーナー]]に反対した。[[第二次世界大戦]]後、彼はファーガン委員会を設立した。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持していた。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、1950年死去する。


1926年に刊行している『[[ホーリズム]]と進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。
スマッツは、第二次[[ボーア戦争]]の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間は[[ドイツ]]に対して南アフリカの軍隊を仕向け[[南西アフリカ]]を占拠し東アフリカでは[[イギリス軍]]を指揮した。[[1917年]]から[[1919年]]まで英国戦争内閣の一員であり[[イギリス空軍]]創設にも助力している。彼は[[1941年]]に[[イギリス軍]]の[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]となり、[[ウィンストン・チャーチル]]の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]両方の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては[[国際連盟]]と[[国際連合]]の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟規約と[[国連憲章]]に署名する唯一の人物でもあった。イギリスと[[イギリス連邦]]を樹立する時、いままでの関係を再検討した。


2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドでは[[ネルソン・マンデラ]]が1位となった。スマッツは6位であった。
2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドでは[[ネルソン・マンデラ]]が1位となった。スマッツは6位であった。


== 人物 ==
== 脚注 ==
== 脚注 ==
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2020年10月28日 (水) 07:16時点における版

ヤン・スマッツ
Jan Christiaan Smuts
ヤン・クリスティアン・スマッツ
生年月日 1870年5月24日
出生地 ケープ植民地
マルベズベリー近郊、ボーフェンプラッツ
没年月日 (1950-09-11) 1950年9月11日(80歳没)
死没地 南アフリカの旗 南アフリカ連邦
プレトリア近郊、イレーネ、ドームクローフ
所属政党 南アフリカ党統一党

南アフリカの旗 第4代首相
内閣 第2次スマッツ内閣
在任期間 1939年9月5日 - 1948年7月4日

南アフリカ連邦の旗 第2代首相
内閣 第1次スマッツ内閣
在任期間 1919年9月3日 - 1924年6月30日
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ヤン・クリスティアン・スマッツ英語: Jan Christiaan Smuts1870年5月24日1950年9月11日)は、南アフリカおよびイギリス連邦政治家軍人哲学者である。

略歴

スマッツは1870年5月24日、英領ケープ植民地のマームズベリーでアフリカーナーの大農園主の息子として生まれた。ステレンボッシュにあるヴィクトリア・カレッジ(のちのステレンボッシュ大学)に進学した後、さらに奨学金を得てケンブリッジ大学に進学した。

1895年にケープ植民地に戻ると、彼はケープタウン弁護士を開業したが、1896年のジェームソン襲撃事件に憤激したスマッツはケープタウンからトランスヴァール共和国の首都プレトリアへ移住し、トランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに才能を認められて司法長官の地位に就いた。 スマッツは1899年、トランスヴァール共和国がイギリスに突きつけた最後通牒を起草した。

ボーア戦争が開戦すると、スマッツはトランスヴァール軍の指揮官の一人としてイギリス軍と戦い、首都陥落後もジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォークルイス・ボータ、クース・デ・ラ・レイらと抗戦を続け、戦争末期にはケープ植民地の奥深くを転戦してケープのアフリカーナーの反乱を起こそうとしたが、これは失敗に終わった。ボーア戦争敗北後、スマッツはボータとともにトランスヴァールのアフリカーナーの指導者となり、オレンジ川植民地(旧オレンジ自由国)のアフリカーナー指導者となったヘルツォークと協力して自治回復の運動を繰り広げた。

1907年の選挙でアフリカーナー勢力は大勝し、スマッツはトランスヴァール植民地の指導者となった。トランスヴァールの政権を握ると、スマッツとボータは南アフリカ4植民地の合同を提唱し、各植民地も賛同。1910年南アフリカ連邦が成立すると、スマッツはルイス・ボータ内閣の内相及び国防相となった。彼は様々な内閣に参加し、1919年から1924年と1939年から1948年に南アフリカ連邦の首相となった。

第一次世界大戦第二次世界大戦時にイギリスの陸軍元帥となる。当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持し、首相として両大戦の間の幾年間に、アパルトヘイトを進めたかった大部分のアフリカーナーに反対した。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、彼はファーガン委員会を設立した。1950年死去する。

人物

スマッツは、第二次ボーア戦争の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間はドイツに対して南アフリカの軍隊を仕向け南西アフリカを占拠し東アフリカではイギリス軍を指揮した。1917年から1919年まで英国戦争内閣の一員であり、イギリス空軍創設にも助力している。第二次世界大戦の間は彼は1941年イギリス軍陸軍元帥となり、ウィンストン・チャーチルの下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは両大戦の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては国際連盟国際連合の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟規約と国連憲章に署名する唯一の人物でもあった。イギリスとイギリス連邦を樹立する時、いままでの関係を再検討した。

スマッツは、ユダヤ人移民を規制したマクドナルド白書に反対し[1]、ユダヤ人のシオニズム運動に協力的であった[2][3]。1949年にはイスラエルの初代大統領となったハイム・ヴァイツマンの75歳の誕生日を祝うハーバート・サミュエル主催の夕食会に参加してヴァイツマンをモーセダビデと比較して称えた[4][5]。イスラエルでは恩人としていくつかの通りやキブツにスマッツの名前がついている[6]

1926年に刊行している『ホーリズムと進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。

2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドではネルソン・マンデラが1位となった。スマッツは6位であった。

脚注

  1. ^ Crossman, R.H.S. (1960). A nation reborn;: A personal report on the roles played by Weizmann, Bevin and Ben-Gurion in the story of Israel. Atheneum Publishers. ASIN B0007DU0X2. p.76
  2. ^ Klieman, Aaron S. (1991). Recognition of Israel: An End & a New Beginning: An End and a New Beginning. Routledge, p. 16. ISBN 978-0824073619.
  3. ^ Hunter, Jane (1987). Israeli Foreign Policy: South Africa and Central America. Spokesman Books. pp 21–22 ISBN 978-0851244853.
  4. ^ Emergence of Israel Hailed by Ex-premier Smuts at London Dinner Honoring Weizmann” (英語). Jewish Telegraphic Agency. 2020年10月28日閲覧。
  5. ^ Lockyer, Norman. Nature, digitized 5 February 2007. Nature Publishing Group.
  6. ^ Beit-Hallahmi, Benjamin (1988). The Israeli Connection: Whom Israel Arms and Why. I.B. Tauris. pp 109-111. ISBN 978-1850430698.

関連項目

外部リンク


先代
設置
南アフリカ連邦の旗 内相
1910 - 1912
次代
アブラハム・フィッシャー
先代
設置
南アフリカ連邦の旗 国防相
1910 - 1920
次代
ヘンドリック・メンツ
先代
ヘンリー・チャールズ・フール
南アフリカ連邦の旗 財務相
1912 - 1915
次代
デーヴィッド・グラーフ
先代
ルイス・ボータ
南アフリカ連邦の旗 首相
第2代 : 1919 - 1924
次代
ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク
先代
オズワルド・ピロウ
南アフリカの旗 司法相
1933 - 1939
次代
コリン・フレイザー・ステイン
先代
ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク
南アフリカの旗 首相
第4代 : 1939 - 1948
次代
ダニエル・フランソワ・マラン
先代
オズワルド・ピロウ
南アフリカの旗 国防相
1939 - 1948
次代
フランス・エラスムス
先代
ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク
南アフリカの旗 外相
1939 - 1948
次代
ダニエル・フランソワ・マラン
先代
ルイス・ボータ
南アフリカの旗 南アフリカ党党首
1919 - 1934
次代
解散
先代
ルイス・ボータ
南アフリカの旗 統一党党首
1939 - 1950
次代
ジャコブス・ギッデオン・ネル・シュトラウス
先代
ウィルフレッド・グレンフル
スコットランドの旗 セント・アンドルーズ大学総長
1931 - 1934
次代
グリエルモ・マルコーニ
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 ケンブリッジ大学総長
1948 - 1950
次代
アーサー・テッダー