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[[File:John Frum gathering area.jpg|thumb|250px|right|ジョン・フラム広場。ここでカーゴ・カルト記念式典などが行われる。]]
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'''ジョン・フラム'''または'''ジョン・フロム'''とは、[[バヌアツ|バヌアツ共和国]][[タンナ島]]における[[カーゴ・カルト]]の[[偶像]]である。綴りはJohn Frum、Jon Frum、John Fromなど一定ではない。現在広く語られるところによれば、フラムは[[第二次世界大戦]]期の[[アメリカ軍|アメリカ兵]]であり、彼に従えば人々に富と幸福がもたらされるとされる。彼は[[白人]]であるとも[[黒人]]であるとも言われ、[[デイビッド・アッテンボロー]]の著書の中にはこの信仰の信者からの聞き取りとして「彼はあなたにそっくりだ。彼は白い顔をしている。彼は背の高い男だ。彼は南米に長く暮らした」とある<ref>{{cite book | author=Attenborough, David | title=People of Paradise | publisher=Harper & Brothers |location=New York |year=1960 |authorlink = David Attenborough}}</ref>。
'''ジョン・フラム'''(John Frum)とは、[[バヌアツ|バヌアツ共和国]][[タンナ島]]における[[カーゴ・カルト]]の[[偶像]]である。現在広く語られるところによれば、フラムは[[第二次世界大戦]]期の[[アメリカ軍|アメリカ兵]]であり、彼に従えば人々に富と幸福がもたらされるとされる。彼は[[白人]]であるとも[[黒人]]であるとも言われ、[[デイビッド・アッテンボロー]]の著書の中にはこの信仰の信者からの聞き取りとして「彼はあなたにそっくりだ。彼は白い顔をしている。彼は背の高い男だ。彼は南米に長く暮らした」とある<ref>{{cite book | author=Attenborough, David | title=People of Paradise | publisher=Harper & Brothers |location=New York |year=1960 |authorlink = David Attenborough}}</ref>。

== 概要 ==
ジョン・フラムという名前が初めて記録に現れたのは、イギリス側の植民地行政当局者ジェームズ・ニコル(James Nicol)が[[セブンスデー・アドベンチスト教会|安息日再臨派教会]]のヤギが次々に姿を消す事件の顛末について記した1940年11月の報告であるという。ただし、この報告書の原本を含む初期のジョン・フラム信仰に関する記録の多くは第二次世界大戦後に失われており、研究や議論は後年に外国人が執筆・編集した文献に基づいている。このことが信仰の実態の把握を困難なものとした<ref name="Topic">{{Cite web |author=Brooke Jarvis |url=https://www.topic.com/who-is-john-frum |title=Who Is John Frum? |website=Topic |publisher= |date= |accessdate=2022-05-15}}</ref>。

[[太平洋戦争]]中、多くのタンナ島の住民がアメリカ軍の補助部隊である{{仮リンク|バヌアツ労働軍団|en|Vanuatu Labor Corps}}に志願し、飛行場建設などに参加した。現在のジョン・フラム信仰にアメリカ軍のイメージが重ねられているのは、こうした戦時中の記憶に基づく部分が大きい。ジョン・フラム信仰の核心は、タンナ島の自治および外界との直接の交流への要求である。タンナ島の人々とアメリカ軍の戦時中の関係は、植民地行政当局に仲介されたものではなく、それ以前の欧米人との関係とは大きく異なっていた。タンナ島の住民にとって、豊かさは単に待っていてもたらされたものではなく、アメリカ軍との直接の交流の成果であると共に、労働軍団を通じた貢献に対する正当な対価である<ref name="Lindstrom"/>。

バヌアツ文化センターの職員ジャン=パスカル・ワヘ(Jean-Pascal Wahé)も、しばしばカーゴ・カルトの典型として語られる「座って助けを待つだけの物語」と、ジョン・フラムは無関係であると指摘する。すなわち、ジョンは全てのカストム、石と精霊、受け継がれし伝統の統一された象徴であり、外部からもたらされる変化ではなく、タンナ島民の文化的アイデンティティの象徴であるという。また、タンナの島民が未だに約束が叶えられるのを待っていると考えるのは間違っていると指摘し、数世代かかることもあったが、1939年に村長たちと交わされた約束は全てが叶えられたとした。例えば金銭的な裕福さを求めた村長の村は、今では{{仮リンク|レナケル|en|Lenakel}}と呼ばれているし、知恵を求めた村長は孫全員が修士号を持っているという。新しい埠頭の建設や島内のインフラ整備なども、約束にもとづいてもたらされたものだと捉える人々もいる。叶えられていない唯一の約束は、{{仮リンク|ソルファー湾|en|Sulphur Bay}}近くの村の村長との間で交わされた、「あなたに戻ってきてほしい。それから1つのテーブルを囲んで一緒に食事をしましょう」というものであるという<ref name="Topic"/>。

ジョン・フラム信仰の根底にある民族主義・反植民地的な思想は、1980年のバヌアツ独立にも影響を与えたと言われている。第二次世界大戦後、バヌアツへの観光客が増加したことで、ジョン・フラム信仰は国外の人々にも知られるようになった<ref name=westoc/>。

現在はラマカラ村(Lamakara)が信仰の拠点である<ref name="Smithsonian"/>。村長のアイザック・ワン(Isaac Wan)は信仰の指導者でもある。

2月15日は、信仰の信者から「ジョン・フラムの日」と呼ばれている。これはジョン・フラムが帰ってくると約束した日とされるほか<ref name="Topic"/>、最後まで植民地行政当局に拘束されていた信者が1957年2月15日に解放されたことを記念したものともされる<ref name="FotW_1">{{Cite web |author= |url=https://www.crwflags.com/fotw/flags/vu_jfrum.html |title=John Frum Movement (Tanna Island, Vanuatu) |website= [[Flags of the World]] |publisher= |date= |accessdate=2022-05-15}}</ref>。この日にはパレードなどの儀式を含む記念式典が催される。

2006年、ジョン・フラム信仰の取材を行ったポール・ラファエレ(Paul Raffaele)は、アイザック・ワンに対し、「ジョンは60年以上も昔にあなたにたくさんのカーゴを約束し、そして誰も来なかった。では、どうしてあなたは彼を信じ続けるのか?どうしてあなたはまだ彼を信じられるのか?」(John promised you much cargo more than 60 years ago, and none has come, So why do you keep faith with him? Why do you still believe in him?)と尋ねた。アイザック・ワンは愉快そうに笑うと、「あなたがたキリスト教徒は[[イエス・キリスト|イエス]]の[[復活 (キリスト教)|復活]]を2000年待っていて、それでも諦めていないだろう」(You Christians have been waiting 2,000 years for Jesus to return to earth, and you haven’t given up hope.)と応じた<ref name="Smithsonian"/>。


==歴史==
==歴史==
[[File:JohnFrumCrossTanna1967.jpg|thumb|250px|right|ジョン・フラムおよびカーゴ・カルトの記念十字碑(1967年、タンナ島)。赤い十字は信仰のシンボルである。アメリカ軍の救急車および衛生兵の制服に描かれていた[[赤十字]]に由来するとも<ref name="Lindstrom"/>、他のキリスト教徒からの迫害を防ぐために敢えてキリスト教のシンボルから借用したとも言われる<ref name="FotW_1"/>]]
[[File:Men serving on Espiritu Santo WWII.jpg|thumb|250px|right|[[エスピリトゥサント島]]米海軍基地の営門(1940年代)]]
[[File:JohnFrumCrossTanna1967.jpg|thumb|250px|right|ジョン・フラムおよびカーゴ・カルトの記念十字碑(1967年、タンナ島)。]]
[[File:John Frum flag raising.jpg|thumb|250px|right|ジョン・フラム信仰の記念式典において掲揚された旗。]]
[[File:John Frum flag raising.jpg|thumb|250px|right|ジョン・フラム信仰の記念式典において掲揚された旗。]]
タンナ島と西洋の接触は、[[ジェームズ・クック]]船長が上陸した1774年から始まり、捕鯨業者や[[ビャクダン|白檀]]取引業者がこれに続いた。1840年から1865年にはタンナ島民が白檀貿易船に船員として乗り込み、タバコや工具、ナイフ、釣り針、その他の欧州の品々を手にすることがあった。この時期に試みられた[[宣教師]]による接触は失敗している。1865年頃に白檀が枯渇した後は労働貿易が行われていたが、1875年には綿花価格の低下と島民の反発でプランテーションが閉鎖された<ref name="Gregory">{{Cite web |author= |url= http://ojs-dev.byuh.edu/index.php/pacific/article/download/2214/2139 |title=JOHN FRUM: AN INDIGENOUS STRATEGY OF REACTION TO MISSION RULE AND THE COLONIAL ORDER |website= |publisher= |date= |accessdate=2022-05-16}}</ref>。
ジョン・フラム信仰のルーツは[[1930年代]]後半にあるとされ、当時バヌアツはニューヘブリデスとして知られていた。この信仰はタンナ島・{{仮リンク|ソルファー湾|en|Sulphur Bay}}を中心に信仰されていた土着宗教、特にタンナ島最高峰である{{仮リンク|タコズメラ山|en|Mount Tukosmera}}の神に関連するカラペラムン(Keraperamun)と呼ばれるものの影響が強いとされる<ref>Worsley, Peter (1957). ''The Trumpet Shall Sound: A Study of 'Cargo' Cults in Melanesia'' London: MacGibbon & Kee. p. 154.</ref>。カラペラムンの神としてのジョン・フラムは、新たな時代の幕開けを告げる存在であり、彼はやがて[[宣教師]]を含む全ての白人がニューヘブリデスを離れ、[[メラネシア人]]たちに白人と同様の物質的豊かさが与えられると予言したという。ただし、これが実現する為にタンナ島の人々は一度欧米的文化(通貨、欧米式教育、[[コプラ]]栽培など)を捨て去り、伝統的な習慣(カストム、kastom)に立ち戻らねばならぬとされていた。いくつかの「神話」の中では、マネヒビ(Manehivi)という名の現地人がフラムの正体であり、欧米風のコートを身に付けて現れた彼は現地人たちに住居や衣類、食料等の約束を取り付けていったと言われている<ref>[URL="http://horizon.documentation.ird.fr/exl-doc/pleins_textes/pleins_textes_5/b_fdi_16-17/22920.pdf"]Guiart, Jean (1952) "John Frum Movement in Tanna" [I]Oceania[/I] Vol 22 No 3 pg 165-177[/URL]</ref><ref>Worsley, ''The Trumpet Shall Sound'', pp. 153–9.</ref>。フラムの原型は[[カヴァ]]の葉が生み出した[[幻覚]]だという説もある<ref>Tabani, Marc, Une pirogue pour le Paradis : le culte de John Frum à Tanna (Vanuatu). Paris : Editions de la Maison des Sciences de l'Homme, 2008.</ref>。


19世紀後半、宣教師がタンナ島に上陸した。彼らは島民に対して欧米的な生活と新しい神を受け入れ、伝統的な習慣、すなわちカストム(Kastom, ビスラマ語で「習慣」の意味)を一切捨て去るよう強要した。これは例えば、踊りや[[カヴァ]]、儀式、村の統治方法、結婚、子供の育て方などである。宣教師はカストムの否定の一環として、伝統的に信仰の対象とされていた石碑を破壊することもあった<ref name="Topic"/>。
1941年ジョン・フラム信者たちは通貨や宣教師及び教会、学校、村落、農園などを捨て、伝統的な祭事や踊りなどに参加するべく内陸部へと移動していった。欧米の植民地監理当局ではこの動きを抑えこむべく、ジョン・フラムを自称する現地人および信仰の指導者らを逮捕して公然の侮辱、投獄、追放などの処分を行った<ref>Geoffrey Hurd et al., ''Human Societies: An Introduction to Sociology'' (Boston: Routledge, 1986) p. 74.</ref><ref>[[Peter Worsley]], ''From Primitives to Zen'', [[Mircea Eliade]] ed. (New York: Harper & Row, 1977) p. 415.</ref><ref>Lamont Lindstrom in ''Cargo Cults and Millenarian Movements: Transoceanic Comparisons of New Religious Movements'' G. W. Trompf ed. (New York: Mouton de Gruyter, 1990) p. 244</ref>。


ジョン・フラム信仰はソルファー湾を中心に広まっていた土着宗教、特にタンナ島最高峰である{{仮リンク|タコズメラ山|en|Mount Tukosmera}}の神の1人、カラペラムン(Keraperamun)の影響が強いとされる<ref>Worsley, Peter (1957). ''The Trumpet Shall Sound: A Study of 'Cargo' Cults in Melanesia'' London: MacGibbon & Kee. p. 154.</ref>。一般に、ジョン・フラム信仰のルーツは[[1930年代]]後半(当時バヌアツは[[ニューヘブリディーズ諸島|ニューヘブリデス]]として知られていた)にあるとされるが、1910年代に一部の村長らが結んだカストムへの回帰と宣教師の排斥に向けた合意に起源があるとする主張もある<ref name= Guiart/>。宣教師の上陸以来、長老派教会や植民地行政当局に対する住民の反発は根強く、1920年代から1930年代のタンナ島では、長老派教会の衰退やカストムへの回帰を告げる存在を題材とした歌が流行していた<ref name="Gregory"/>。
こうした当局の動きにも関わらず、[[太平洋戦争]]が始まると米軍がニューヘブリデスへおよそ30万人の将兵を派遣し、これに伴い大量の物資、すなわち「カーゴ」(cargo)が投下された事で信仰されていた物質的豊かさが実現し、ジョン・フラム信仰は一層とその規模を増した<ref name=westoc>[http://philtar.ucsm.ac.uk/encyclopedia/westoc/jonfrum.html Western Oceanian Religions: Jon Frum Movement] University of Cumbria</ref>。以後、ジョン・フラム信仰では実際に物質的豊かさをもたらした米軍を偶像たるジョン・フラムと同一視するようになる。こうしたアメリカの影響を特に強調した「神話」として、ジョン・フラムが「ジョン・フロム・アメリカ」(John from America, 「アメリカから来たジョン」)に由来すると語られたり、ジョン・フラムは米軍の黒人兵であったと語られる事もある<ref>{{cite web | last = Turnbull | first = Alex | title = John Frum Day | work = Googlesightseeing | publisher = [[Google]] | date = February 15, 2008 | url = http://googlesightseeing.com/2008/02/john-frum-day/ | accessdate = 2011-02-04 }}</ref>。やがて終戦と共に米軍は撤退していったが、ジョン・フラム信者たちは米軍機が再び着陸して彼らに「カーゴ」をもたらす事を願い、多くの「滑走路」を作り上げていった。


「神話」は細部が異なり相互に矛盾するような形で様々に語られるが、ジャン=パスカル・ワヘが正しい「神話」として説明するところでは、1939年にグリーン・ポイントに現れた白人が「ジョン・フロム・アメリカ」(John from America, 「アメリカから来たジョン」)と名乗ったことが、いわゆるジョン・フラム信仰の始まりであるという。ジョンは外見こそ人間のようであったが、タンナの言葉を使いこなすだけではなく、あらゆる場所に自在に現れる能力を持っており、やがて精霊の一種だと考えられるようになった。ジョンは人々に宣教師の言葉を忘れ、カストムに立ち戻るよう説き、さらに島の村長たちにグリーン・ポイントに集まるように要請した。この会談で、ジョンは村長たちから願いを1つずつ聞いていった。一方、アイザック・ワンの息子、アイザック・ジュニアが語るところでは、フラムという名はブルーム(Broom, ほうき)に由来し、彼は「汚れ」、すなわち宣教師や欧米が定めた規範を一掃する存在であるという<ref name="Topic"/>。植民地行政当局者のアレクサンダー・レントール(Alexander Rentoul)も、1949年にはアイザック・ジュニアと同様の見解を述べている<ref name="Smithsonian">{{Cite journal
1957年、当時のジョン・フラム信仰の指導者ナコマハ(Nakomaha)は、タンナ陸軍(Tanna Army)と呼ばれる組織を設立した。これは本物の軍事組織ではなく、アメリカの影響を受けたジョン・フラム信仰の一環たる儀式として軍の行進・訓練などを再現する為の組織である。彼ら顔を緑色に塗りT-A USA(Tannna Army USA)と書れた白い[[Tシャツ]]を着用しいる。今日では上半身裸で西洋風のズボンいた姿が儀式おける正装とされ、ま指揮官を演じるものが軍服風の衣装を着用する場合もある
| last = Raffaele
| first = Paul
| title = In John They Trust
| journal = Smithsonian
| publisher = Smithsonian
| date = February 2006
| url = https://www.smithsonianmag.com/history/in-john-they-trust-109294882/
| accessdate = 2022-05-15}}</ref>。

1939年に現れたジョン・フラムの正体は全く不明だが、政情不安を招こうとしている[[日本軍]]のスパイであるという噂もあり、植民地行政当局も当時調査を行っている。最終的には島民の誰かが詐欺を目的に自称したのではないかと考え、以後は多数の容疑者の逮捕および処罰を押し進めた<ref name="Lindstrom">{{cite book |last=Lindstrom|first=Lamont|date=1991|title=The Vanuatu Labor Corps Experience|work=Remembering the Pacific War|url=https://core.ac.uk/download/pdf/5104001.pdf|publisher=Center for Pacific Studies|pages=47–58|issn=0897-8905|accessdate=2022-05-15}}</ref>。一説には、マネヒビ(Manehivi)という名の島民が、1939年のジョン・フラムの正体であり、欧米風のコートを身に付けて現れた彼は現地人たちに住居や衣類、食料等の約束を取り付けていったと言われることもある<ref name= Guiart>{{cite journal|url=http://horizon.documentation.ird.fr/exl-doc/pleins_textes/pleins_textes_5/b_fdi_16-17/22920.pdf|author=Guiart, Jean|date=March 1952|title=John Frum Movement in Tanna|journal=Oceania|volume=22|issue=3|pages=165–177|doi=10.1002/j.1834-4461.1952.tb00558.x|access-date=2020-03-07}}</ref><ref>Worsley, ''The Trumpet Shall Sound'', pp. 153–9.</ref>。あるいは、その原型は[[カヴァ]]の葉が生み出した[[幻覚]]だという説もある<ref>Tabani, Marc, Une pirogue pour le Paradis : le culte de John Frum à Tanna (Vanuatu). Paris : Editions de la Maison des Sciences de l'Homme, 2008.</ref>。グリーン・ポイント近くの出身のジャック・コフ(Jack Kohu)という元警官がジョン・フラムの正体であるとする説もある<ref name="Gregory"/>。

当時の調査によれば、当初1939年のジョン・フラムは伝統的な踊りやカヴァを飲むことを勧め、協力して働くことを称え、怠惰を非難し、集団行動に関する助言を行う程度だったが、やがて宣教師の排斥などの過激な主張を加えた上、自らはカラペラムンの化身であり、今や名をジョン・フラムと改めたのであると主張するようになったという。彼は白人の排斥の後にジョン・フラムによる新たな[[物質文明]]がもたらされると語り、島民が持つ彼らの貨幣を全て捨てるか白人に返すことによって、白人たちが島に留まる目的を消滅させねばならないとした<ref name= Guiart/>。

ジョン・フラムの正体が誰であれ、一連の主張は民族主義的な思想を持つ村長らのほか、日々の宗教的奉仕に反発し性的な自由を求める女性にも支持された。マネヒビの逮捕後も、本物のジョン・フラムはまだ自由の身である、ジョン・フラムの息子が王を探すためにアメリカに渡った、タコズメラ山はジョン・フラムに指揮された見えない飛行機で守られているなど、様々な噂が「神話」に継ぎ足されていった<ref name= Guiart/>。

この信仰が植民地行政当局にとっての深刻な懸念となったのは、1941年のことである。ジョン・フラム信者たちは通貨や宣教師及び教会、学校、村落、農園などを捨て、伝統的な祭事や踊りなどに参加するべく内陸部へと移動していった。植民地行政当局ではこの動きを抑えこむべく、ジョン・フラムを自称する現地人および信仰の指導者らを逮捕して公然の侮辱、投獄、追放などの処分を行った<ref>Geoffrey Hurd et al., ''Human Societies: An Introduction to Sociology'' (Boston: Routledge, 1986) p. 74.</ref><ref>[[Peter Worsley]], ''From Primitives to Zen'', [[Mircea Eliade]] ed. (New York: Harper & Row, 1977) p. 415.</ref><ref>Lamont Lindstrom in ''Cargo Cults and Millenarian Movements: Transoceanic Comparisons of New Religious Movements'' G. W. Trompf ed. (New York: Mouton de Gruyter, 1990) p. 244</ref>。

ジョン・フラムは、タンナ島の人々が英仏の植民地当局と戦う時、アメリカ人が助けに現れると語ったことがあると言われている。当局は1941年にこうした内容を含む手紙を確認しているが、[[真珠湾攻撃]]によってアメリカが第二次世界大戦に参戦するのはそのわずか数ヶ月後のことだった<ref name="Lindstrom"/>。

=== 太平洋戦争 ===
[[File:Men serving on Espiritu Santo WWII.jpg|thumb|250px|right|[[エスピリトゥサント島]]米海軍基地の営門(1940年代)]]
[[太平洋戦争]]が始まると、アメリカ軍がニューヘブリデスへおよそ30万人の将兵を派遣し、住民はアメリカ人の物質的な豊かさを目の当たりにした。こうした中で[[アンクル・サム]]、[[サンタクロース]]、[[洗礼者ヨハネ]]などもジョン・フラムのイメージに統合されていった<ref name=westoc>{{Cite web |author= |url=http://www.philtar.ac.uk/encyclopedia/westoc/jonfrum.html |title= Western Oceanian Religions: Jon Frum Movement|website=University of Cumbria |publisher= |date= |accessdate=2022-05-15}}</ref>。南太平洋の島々への進駐をアメリカ軍が決定したのは、開戦間もない1942年初頭のことである。その目的は、日本軍の南進を防ぎ、[[オーストラリア]]への航路を確保することであった。そして、1943年まで日本軍による攻撃の可能性はなくなり、ニューヘブリデス各地の前哨基地は後方支援基地へと改組されていった。そのため、大勢の見知らぬ人々や大量の軍需物資の頻繁な出入りこそが、戦闘よりも鮮明な戦争の記憶としてバヌアツの人々に刻まれたのである<ref name="Lindstrom"/>。

開戦直前の1941年、ニューヘブリデス全体の住民は40,000人程度で、道路や電話網、水道も整備されず、飛行場さえなかった。プランテーションでの労働や換金作物としてのココナツ栽培に従事する者さえ少数で、集落の経済の中心は依然として原始的な自給農業であった。しかし、進駐からわずか数ヶ月の間に、アメリカの海軍建設工兵隊([[シービー]])および陸軍建設工兵隊は、基地が必要とする全てのもの、すなわち飛行場、港湾施設、給水システム、兵舎、倉庫、映画館、道路、レストラン、クラブ、バーなどを次々と設置していった。アメリカ軍には現地住民との過度の接触を禁じる規則があったものの、ニューヘブリデスではほとんど無視され、様々な形での交流が行われた<ref name="Lindstrom"/>。

1942年、アメリカ軍は現地人労働者から成る{{仮リンク|バヌアツ労働軍団|en|Vanuatu Labor Corps}}を設置した。通常、この種の労働部隊の募集は植民地行政当局を通じて行われたが、英仏共同統治という特殊性から当局者との議論がしばしば混乱していたことと、アメリカ軍にとっては太平洋に設置する最初の基地の1つであり、後に定められるよりも曖昧かつ現地感情を重視した雇用方針を取っていたことから、ニューヘブリデスではアメリカ軍が直接雇用する形を取ったのである。賃金などの問題で募集が捗らなかった他地域と異なり、ジョン・フラムの言葉がアメリカの到来を予見していたことも手伝い、タンナ島の人々は進んで志願したと伝えられている。1942年末までに、およそ1,000人のタンナ島民、すなわち島内の労働可能な男性のほぼ全員が雇用され、[[エファテ島]]の飛行場建設現場に派遣された。生活する兵舎は自分たちで建てる必要があったが、制服は軍の余剰品が与えられたほか、食料やタバコ、その他の物品もアメリカ軍から提供されており、給料も支払われた。多くのタンナ島民は、ここでアメリカ軍が持ち込んだ機械や車両、兵器、大量の物資を目の当たりにし、かつてのプランテーション労働とは異なる、テクノロジーで効率化されたアメリカ式の労働に感銘を受けた。軍隊式のローテーション勤務も彼らが初めて体験するものだった。戦闘に巻き込まれる可能性は低かったものの、空襲や潜水艦の接近を知らせるサイレンが頻繁に鳴り響き、作業中の事故や病気で死ぬ者もあった上、後送されてくる負傷兵らを目にしたことは、労働軍団での勤務にプランテーション労働より危険なものという印象を与えた。また、黒人部隊である米陸軍{{仮リンク|第24歩兵連隊 (アメリカ軍)|label=第24歩兵連隊|en|24th Infantry Regiment (United States)}}と共に働くこともあった。当時、ほとんどの黒人兵は戦闘任務よりも重要性が低いとされた輸送や需品管理に割り当てられていたのだが、現地人には彼らこそがアメリカ軍が誇る膨大な物資を取り仕切る重要な立場の者とみなされた<ref name="Lindstrom"/>。黒人兵たちが白人兵と同じ制服を着て、同じ食事をしていることは、共に座って食事をするべきというカストムにも合致し、かつての宣教師らとの違いを際立たせた<ref name="Smithsonian"/>。労働軍団を設置するにあたり、[[ポートビラ]]で収監されていたジョン・フラム信者らが、人員不足を補う目的で釈放されたことも、アメリカ軍に好印象を与える要因となった<ref name="Gregory"/>。1943年、ネロイアグ(Neloiag)という島民が、タンナ島およびアメリカの王ジョン・フラムを自称し、アメリカ軍を迎える飛行場の建設を村人たちに命じた。これが植民地行政当局の知るところになるとネロイアグは逮捕されたのだが、まもなく武装した住民が事務所を取り囲み、ネロイアグの釈放を要求し始めた。この際にアメリカ軍は連絡将校と分遣隊を派遣し、事態の収拾を図った。アメリカ軍による説得も試みられたが、これが信仰の規模に大きな影響を与えることはなかった<ref name= Guiart/>。

アメリカ軍人との出会いは、タンナ島の人々に大きな影響を及ぼした。戦前の英仏人は、厳格な[[奢侈禁止令]]のもと島民との間の明確な境界を維持することで植民地統治を試みた。しかし、アメリカ軍人はこうした境界への関心が極めて薄く、しばしば現地人と食事をしたり、タバコや衣類を分け与えたり、共に写真を撮るなどしていた。アメリカ軍人の示す「友情」は、一方的で押し付けがましいものに過ぎないことも多かったが、それでも英仏人の振る舞いとは大きく異なっていた<ref name="Lindstrom"/>。

=== 戦後 ===
終戦後、撤退するアメリカ軍が残したものは必ずしも多くはなかった。飛行場や道路、いくつかの兵舎や車両などはそのまま残置されたが、在庫として残されていた物資のうち、必要が無いとされたものは全て海に投棄された。しかし、アメリカ軍の記憶とジョン・フラム信仰は、エファテ島から戻った労働軍団の元隊員らによって明確に結び付けられ、英仏に対する新たな反植民地運動の組織につながった。この時期には[[コプラ]]の栽培および販売のボイコットなどが行われたほか、島の北部ではアメリカ軍を再び迎えるための飛行場が作られたという。植民地行政当局は1956年頃まで弾圧を続けた。こうした中でジョン・フラム信仰は徐々に組織化され、関連する政党や教会なども派生した。教義や目標の見直しも進められ、戦時中の体験に基づく様々な儀式やシンボルが考案された<ref name="Lindstrom"/>。1956年10月、植民地行政当局は活動を合法的な範囲に留める限りにおいて、ジョン・フラム信仰を宗教と認めた。これは全面的な弾圧が終わることを意味していたが、同時に地域や言語などに基づく宗派間対立の表面化を招いた。また、当局への抵抗を続けたグループも一部あった<ref name="Gregory"/>。

1957年、当時のジョン・フラム信仰の指導者ナコマハ(Nakomaha)は、タンナ陸軍(Tanna Army)と呼ばれる組織を設立した。これは本物の軍事組織ではなく、儀式の一環としてアメリカ軍の行進・訓練などを再現する組織である。タンナ陸軍では、かて上半身裸で体にUSAという文字いた姿で行進を行っていた、後アメリカに住む人物から寄贈された軍服を着用するようになった。行進の際、彼らは先端が赤く塗られた竹槍(着剣した小銃を表す)を担ぐ<ref name="Topic"/>


1970年代後半、ジョン・フラム信者らは統一国家たるバヌアツ共和国の独立に反対した。彼らは統一政府が近代的・西洋的なキリスト教の信仰を支持する事で古くからの慣習が揺るがされることを恐れたのである。
1970年代後半、ジョン・フラム信者らは統一国家たるバヌアツ共和国の独立に反対した。彼らは統一政府が近代的・西洋的なキリスト教の信仰を支持する事で古くからの慣習が揺るがされることを恐れたのである。


1973年、元フランス軍人でエファテ島の農園主だった{{仮リンク|アントワーヌ・フォルネリ|fr|Antoine Fornelli}}は、長老派教会から支持された親英派の[[バヌア・アク党|国民党]]に対抗する合法的かつ穏健な政党を組織しようと考え、タンナ島に渡った。やがてフォルネリのグループは親交を持ったジョン・フラム運動幹部らの支持を背景に勢力を増し、長老派教会および国民党からも危険視されるようになった。1974年になると政治的緊張は増し、フォルコナ(Forcona)と称されるようになっていたフォルネリのグループはジョン・フラム運動の反植民地的な思想の影響を受け、穏健な政党ではなく独立運動の様相を呈していた。フォルネリは怯えた様子ではあったが、かつて対独抵抗運動に参加した経験もあったため、島の独立やカストムへの回帰という大義には強く賛同した。1974年3月24日に催された大会では、白い軍服と落下傘兵用の赤いベレーを着用したフォルネリのもと、タンナ国の国旗発表、公職の任命、独立宣言が行われた。1974年5月、長老派教会とジョン・フラム信仰間の内戦を恐れた当局は、制服の着用、旗の掲揚、違法な会合のすべてを禁止する共同法令を発行し、フォルコナの鎮圧に乗り出した。6月29日、治安部隊によってフォルネリらは逮捕され、タンナ国の独立は実現しなかった<ref name="FotW_2">{{Cite web |author= |url=https://www.crwflags.com/fotw/flags/vu%7Dtanna.html |title=Nation of Tanna (Vanuatu) |website= [[Flags of the World]] |publisher= |date= |accessdate=2022-05-15}}</ref>。
今日でもジョン・フラム信仰は一定の規模で生きており、ジョン・フラムが戻ってくるとされている2月15日はジョン・フラム信者から「ジョン・フラムの日」と呼ばれ、タンナ陸軍によるパレードなどの儀式を含む記念式典が催される。またジョン・フラム信者らはジョン・フラム運動なる政党を組織している。2007年2月のジョン・フラムの日、同党は創立50週年を迎えた<ref name="BBC 50th anniv">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/6363843.stm|title=Vanuatu cargo cult marks 50 years|date=2007-02-15|accessdate=2007-02-15|publisher=BBC News}}</ref>。

1978年には式典で初めて星条旗が掲げられた。1982年には星条旗を含む儀式に使われる道具の多くが共和国政府に没収されたものの、後に再び掲げられるようになった<ref name="Lindstrom"/>。

1999年、ジョン・フラム信仰の分裂が起こった。ジョン・フラム運動の幹部だった預言者フレッド(Fred)が、ジョン・フラムとキリスト教を結びつけたジーザス・ジョン(Jesus-John)の概念を提唱し始めたためである。[[長老派教会]]信者だったフレッドは、大洪水の予言を成功させた上、まもなく世界は終焉を迎えると語り、島外の住人も含む多くの人々の注目を集めていた。フレッドの支持者はアイザック・ワンの元を離れ、新しい村を作った<ref name="Topic"/>。この時にはおよそ半数の信者がフレッド派となった。フレッド派では戦時中に投下された物資の話題はタブーとされるほか、式典でも星条旗を含む外国の国旗は掲揚されない。2000年代初頭、両派の対立は斧や弓矢、パチンコで武装した400人以上の若者の暴力的な衝突に発展した。教会や住居の焼き討ちが行われたほか、25人が重傷を負った<ref name="Smithsonian"/>。2011年にフレッドが死去した後、フレッド派は大幅に信者を減らしたものの、以後も2月15日の式典はそれぞれの村で別々に行われる。これとは別に、ジョン・フラムが初めて現れたとされるグリーン・ポイント近くの集落にも、主流派に対立する分派が存在する。この分派は、アメリカとジョン・フラムは無関係であるとしており、2月15日も記念日とはしていない<ref name="Topic"/>。

タンナ島は、バヌアツの中でも特に文化的伝統が維持されていることで知られているが、これがジョン・フラム信仰のためだと考える者は信者以外でも多い。公教育でも地元の文化や習慣に関する内容が重視され、カストムの一部としてジョン・フラム信仰に触れられることもあるという<ref name="Topic"/>。


==関連項目==
==関連項目==
*[[フィリップ王配信仰]] - タンナ島の一部で信仰されているカーゴ・カルトの一種で、[[イギリス]]の[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公爵フィリップ王配]]を偶像とする。ジョン・フラム信仰との関係が深い。
*[[フィリップ王配信仰]] - タンナ島の一部で信仰されているカーゴ・カルトの一種で、[[イギリス]]の[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公爵フィリップ王配]]を偶像とする。ジョン・フラム信仰との関係が深い。
*{{仮リンク|ナグリアメル|en|Nagriamel}} - 1966年に結成された政党。ジョン・フラム信仰との関係が深い。
*[[白人の救世主]]
*[[白人の救世主]]


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* Theroux, P (1992) 'The Happy Isles of Oceania' Penguin Books ISBN 0-14-015976-2
* Theroux, P (1992) 'The Happy Isles of Oceania' Penguin Books ISBN 0-14-015976-2
* Nat. Geographic: May 1974. "Tanna (Island, New Hebrides, South Pacific Ocean) Awaits the Coming of John Frum (cargo cults of [[Melanesia]] since about 1940)".
* Nat. Geographic: May 1974. "Tanna (Island, New Hebrides, South Pacific Ocean) Awaits the Coming of John Frum (cargo cults of [[Melanesia]] since about 1940)".
* {{Cite journal
| last = Raffaele
| first = Paul
| title = In John They Trust
| journal = Smithsonian
| publisher = Smithsonian
| date = February 2006
| url = http://www.smithsonianmag.com/people-places/john.html
| accessdate = Nov 26, 2009}}


==外部リンク==
==外部リンク==
* [http://philtar.ucsm.ac.uk/encyclopedia/westoc/jonfrum.html Jon Frum Movement]
* [http://www.nthposition.com/thelastcargo.php The last cargo cult]
* [http://www.smithsonianmagazine.com/issues/2006/february/john.php "In John They Trust"] article in ''[[Smithsonian Magazine]]''
* [http://vimeo.com/10526476 "The Return of John Frum"], an animated short film and an artist's interpretation of the return of John Frum
* [http://www.johnfrummovie.com "John Frum, He Will Come"], John Frum, He Will Come


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2022年5月16日 (月) 09:59時点における版

ジョン・フラム広場。ここで記念式典などが行われる。

ジョン・フラム(John Frum)とは、バヌアツ共和国タンナ島におけるカーゴ・カルト偶像である。現在広く語られるところによれば、フラムは第二次世界大戦期のアメリカ兵であり、彼に従えば人々に富と幸福がもたらされるとされる。彼は白人であるとも黒人であるとも言われ、デイビッド・アッテンボローの著書の中にはこの信仰の信者からの聞き取りとして「彼はあなたにそっくりだ。彼は白い顔をしている。彼は背の高い男だ。彼は南米に長く暮らした」とある[1]

概要

ジョン・フラムという名前が初めて記録に現れたのは、イギリス側の植民地行政当局者ジェームズ・ニコル(James Nicol)が安息日再臨派教会のヤギが次々に姿を消す事件の顛末について記した1940年11月の報告であるという。ただし、この報告書の原本を含む初期のジョン・フラム信仰に関する記録の多くは第二次世界大戦後に失われており、研究や議論は後年に外国人が執筆・編集した文献に基づいている。このことが信仰の実態の把握を困難なものとした[2]

太平洋戦争中、多くのタンナ島の住民がアメリカ軍の補助部隊であるバヌアツ労働軍団英語版に志願し、飛行場建設などに参加した。現在のジョン・フラム信仰にアメリカ軍のイメージが重ねられているのは、こうした戦時中の記憶に基づく部分が大きい。ジョン・フラム信仰の核心は、タンナ島の自治および外界との直接の交流への要求である。タンナ島の人々とアメリカ軍の戦時中の関係は、植民地行政当局に仲介されたものではなく、それ以前の欧米人との関係とは大きく異なっていた。タンナ島の住民にとって、豊かさは単に待っていてもたらされたものではなく、アメリカ軍との直接の交流の成果であると共に、労働軍団を通じた貢献に対する正当な対価である[3]

バヌアツ文化センターの職員ジャン=パスカル・ワヘ(Jean-Pascal Wahé)も、しばしばカーゴ・カルトの典型として語られる「座って助けを待つだけの物語」と、ジョン・フラムは無関係であると指摘する。すなわち、ジョンは全てのカストム、石と精霊、受け継がれし伝統の統一された象徴であり、外部からもたらされる変化ではなく、タンナ島民の文化的アイデンティティの象徴であるという。また、タンナの島民が未だに約束が叶えられるのを待っていると考えるのは間違っていると指摘し、数世代かかることもあったが、1939年に村長たちと交わされた約束は全てが叶えられたとした。例えば金銭的な裕福さを求めた村長の村は、今ではレナケル英語版と呼ばれているし、知恵を求めた村長は孫全員が修士号を持っているという。新しい埠頭の建設や島内のインフラ整備なども、約束にもとづいてもたらされたものだと捉える人々もいる。叶えられていない唯一の約束は、ソルファー湾英語版近くの村の村長との間で交わされた、「あなたに戻ってきてほしい。それから1つのテーブルを囲んで一緒に食事をしましょう」というものであるという[2]

ジョン・フラム信仰の根底にある民族主義・反植民地的な思想は、1980年のバヌアツ独立にも影響を与えたと言われている。第二次世界大戦後、バヌアツへの観光客が増加したことで、ジョン・フラム信仰は国外の人々にも知られるようになった[4]

現在はラマカラ村(Lamakara)が信仰の拠点である[5]。村長のアイザック・ワン(Isaac Wan)は信仰の指導者でもある。

2月15日は、信仰の信者から「ジョン・フラムの日」と呼ばれている。これはジョン・フラムが帰ってくると約束した日とされるほか[2]、最後まで植民地行政当局に拘束されていた信者が1957年2月15日に解放されたことを記念したものともされる[6]。この日にはパレードなどの儀式を含む記念式典が催される。

2006年、ジョン・フラム信仰の取材を行ったポール・ラファエレ(Paul Raffaele)は、アイザック・ワンに対し、「ジョンは60年以上も昔にあなたにたくさんのカーゴを約束し、そして誰も来なかった。では、どうしてあなたは彼を信じ続けるのか?どうしてあなたはまだ彼を信じられるのか?」(John promised you much cargo more than 60 years ago, and none has come, So why do you keep faith with him? Why do you still believe in him?)と尋ねた。アイザック・ワンは愉快そうに笑うと、「あなたがたキリスト教徒はイエス復活を2000年待っていて、それでも諦めていないだろう」(You Christians have been waiting 2,000 years for Jesus to return to earth, and you haven’t given up hope.)と応じた[5]

歴史

ジョン・フラムおよびカーゴ・カルトの記念十字碑(1967年、タンナ島)。赤い十字は信仰のシンボルである。アメリカ軍の救急車および衛生兵の制服に描かれていた赤十字に由来するとも[3]、他のキリスト教徒からの迫害を防ぐために敢えてキリスト教のシンボルから借用したとも言われる[6]
ジョン・フラム信仰の記念式典において掲揚された旗。

タンナ島と西洋の接触は、ジェームズ・クック船長が上陸した1774年から始まり、捕鯨業者や白檀取引業者がこれに続いた。1840年から1865年にはタンナ島民が白檀貿易船に船員として乗り込み、タバコや工具、ナイフ、釣り針、その他の欧州の品々を手にすることがあった。この時期に試みられた宣教師による接触は失敗している。1865年頃に白檀が枯渇した後は労働貿易が行われていたが、1875年には綿花価格の低下と島民の反発でプランテーションが閉鎖された[7]

19世紀後半、宣教師がタンナ島に上陸した。彼らは島民に対して欧米的な生活と新しい神を受け入れ、伝統的な習慣、すなわちカストム(Kastom, ビスラマ語で「習慣」の意味)を一切捨て去るよう強要した。これは例えば、踊りやカヴァ、儀式、村の統治方法、結婚、子供の育て方などである。宣教師はカストムの否定の一環として、伝統的に信仰の対象とされていた石碑を破壊することもあった[2]

ジョン・フラム信仰はソルファー湾を中心に広まっていた土着宗教、特にタンナ島最高峰であるタコズメラ山英語版の神の1人、カラペラムン(Keraperamun)の影響が強いとされる[8]。一般に、ジョン・フラム信仰のルーツは1930年代後半(当時バヌアツはニューヘブリデスとして知られていた)にあるとされるが、1910年代に一部の村長らが結んだカストムへの回帰と宣教師の排斥に向けた合意に起源があるとする主張もある[9]。宣教師の上陸以来、長老派教会や植民地行政当局に対する住民の反発は根強く、1920年代から1930年代のタンナ島では、長老派教会の衰退やカストムへの回帰を告げる存在を題材とした歌が流行していた[7]

「神話」は細部が異なり相互に矛盾するような形で様々に語られるが、ジャン=パスカル・ワヘが正しい「神話」として説明するところでは、1939年にグリーン・ポイントに現れた白人が「ジョン・フロム・アメリカ」(John from America, 「アメリカから来たジョン」)と名乗ったことが、いわゆるジョン・フラム信仰の始まりであるという。ジョンは外見こそ人間のようであったが、タンナの言葉を使いこなすだけではなく、あらゆる場所に自在に現れる能力を持っており、やがて精霊の一種だと考えられるようになった。ジョンは人々に宣教師の言葉を忘れ、カストムに立ち戻るよう説き、さらに島の村長たちにグリーン・ポイントに集まるように要請した。この会談で、ジョンは村長たちから願いを1つずつ聞いていった。一方、アイザック・ワンの息子、アイザック・ジュニアが語るところでは、フラムという名はブルーム(Broom, ほうき)に由来し、彼は「汚れ」、すなわち宣教師や欧米が定めた規範を一掃する存在であるという[2]。植民地行政当局者のアレクサンダー・レントール(Alexander Rentoul)も、1949年にはアイザック・ジュニアと同様の見解を述べている[5]

1939年に現れたジョン・フラムの正体は全く不明だが、政情不安を招こうとしている日本軍のスパイであるという噂もあり、植民地行政当局も当時調査を行っている。最終的には島民の誰かが詐欺を目的に自称したのではないかと考え、以後は多数の容疑者の逮捕および処罰を押し進めた[3]。一説には、マネヒビ(Manehivi)という名の島民が、1939年のジョン・フラムの正体であり、欧米風のコートを身に付けて現れた彼は現地人たちに住居や衣類、食料等の約束を取り付けていったと言われることもある[9][10]。あるいは、その原型はカヴァの葉が生み出した幻覚だという説もある[11]。グリーン・ポイント近くの出身のジャック・コフ(Jack Kohu)という元警官がジョン・フラムの正体であるとする説もある[7]

当時の調査によれば、当初1939年のジョン・フラムは伝統的な踊りやカヴァを飲むことを勧め、協力して働くことを称え、怠惰を非難し、集団行動に関する助言を行う程度だったが、やがて宣教師の排斥などの過激な主張を加えた上、自らはカラペラムンの化身であり、今や名をジョン・フラムと改めたのであると主張するようになったという。彼は白人の排斥の後にジョン・フラムによる新たな物質文明がもたらされると語り、島民が持つ彼らの貨幣を全て捨てるか白人に返すことによって、白人たちが島に留まる目的を消滅させねばならないとした[9]

ジョン・フラムの正体が誰であれ、一連の主張は民族主義的な思想を持つ村長らのほか、日々の宗教的奉仕に反発し性的な自由を求める女性にも支持された。マネヒビの逮捕後も、本物のジョン・フラムはまだ自由の身である、ジョン・フラムの息子が王を探すためにアメリカに渡った、タコズメラ山はジョン・フラムに指揮された見えない飛行機で守られているなど、様々な噂が「神話」に継ぎ足されていった[9]

この信仰が植民地行政当局にとっての深刻な懸念となったのは、1941年のことである。ジョン・フラム信者たちは通貨や宣教師及び教会、学校、村落、農園などを捨て、伝統的な祭事や踊りなどに参加するべく内陸部へと移動していった。植民地行政当局ではこの動きを抑えこむべく、ジョン・フラムを自称する現地人および信仰の指導者らを逮捕して公然の侮辱、投獄、追放などの処分を行った[12][13][14]

ジョン・フラムは、タンナ島の人々が英仏の植民地当局と戦う時、アメリカ人が助けに現れると語ったことがあると言われている。当局は1941年にこうした内容を含む手紙を確認しているが、真珠湾攻撃によってアメリカが第二次世界大戦に参戦するのはそのわずか数ヶ月後のことだった[3]

太平洋戦争

エスピリトゥサント島米海軍基地の営門(1940年代)

太平洋戦争が始まると、アメリカ軍がニューヘブリデスへおよそ30万人の将兵を派遣し、住民はアメリカ人の物質的な豊かさを目の当たりにした。こうした中でアンクル・サムサンタクロース洗礼者ヨハネなどもジョン・フラムのイメージに統合されていった[4]。南太平洋の島々への進駐をアメリカ軍が決定したのは、開戦間もない1942年初頭のことである。その目的は、日本軍の南進を防ぎ、オーストラリアへの航路を確保することであった。そして、1943年まで日本軍による攻撃の可能性はなくなり、ニューヘブリデス各地の前哨基地は後方支援基地へと改組されていった。そのため、大勢の見知らぬ人々や大量の軍需物資の頻繁な出入りこそが、戦闘よりも鮮明な戦争の記憶としてバヌアツの人々に刻まれたのである[3]

開戦直前の1941年、ニューヘブリデス全体の住民は40,000人程度で、道路や電話網、水道も整備されず、飛行場さえなかった。プランテーションでの労働や換金作物としてのココナツ栽培に従事する者さえ少数で、集落の経済の中心は依然として原始的な自給農業であった。しかし、進駐からわずか数ヶ月の間に、アメリカの海軍建設工兵隊(シービー)および陸軍建設工兵隊は、基地が必要とする全てのもの、すなわち飛行場、港湾施設、給水システム、兵舎、倉庫、映画館、道路、レストラン、クラブ、バーなどを次々と設置していった。アメリカ軍には現地住民との過度の接触を禁じる規則があったものの、ニューヘブリデスではほとんど無視され、様々な形での交流が行われた[3]

1942年、アメリカ軍は現地人労働者から成るバヌアツ労働軍団英語版を設置した。通常、この種の労働部隊の募集は植民地行政当局を通じて行われたが、英仏共同統治という特殊性から当局者との議論がしばしば混乱していたことと、アメリカ軍にとっては太平洋に設置する最初の基地の1つであり、後に定められるよりも曖昧かつ現地感情を重視した雇用方針を取っていたことから、ニューヘブリデスではアメリカ軍が直接雇用する形を取ったのである。賃金などの問題で募集が捗らなかった他地域と異なり、ジョン・フラムの言葉がアメリカの到来を予見していたことも手伝い、タンナ島の人々は進んで志願したと伝えられている。1942年末までに、およそ1,000人のタンナ島民、すなわち島内の労働可能な男性のほぼ全員が雇用され、エファテ島の飛行場建設現場に派遣された。生活する兵舎は自分たちで建てる必要があったが、制服は軍の余剰品が与えられたほか、食料やタバコ、その他の物品もアメリカ軍から提供されており、給料も支払われた。多くのタンナ島民は、ここでアメリカ軍が持ち込んだ機械や車両、兵器、大量の物資を目の当たりにし、かつてのプランテーション労働とは異なる、テクノロジーで効率化されたアメリカ式の労働に感銘を受けた。軍隊式のローテーション勤務も彼らが初めて体験するものだった。戦闘に巻き込まれる可能性は低かったものの、空襲や潜水艦の接近を知らせるサイレンが頻繁に鳴り響き、作業中の事故や病気で死ぬ者もあった上、後送されてくる負傷兵らを目にしたことは、労働軍団での勤務にプランテーション労働より危険なものという印象を与えた。また、黒人部隊である米陸軍第24歩兵連隊英語版と共に働くこともあった。当時、ほとんどの黒人兵は戦闘任務よりも重要性が低いとされた輸送や需品管理に割り当てられていたのだが、現地人には彼らこそがアメリカ軍が誇る膨大な物資を取り仕切る重要な立場の者とみなされた[3]。黒人兵たちが白人兵と同じ制服を着て、同じ食事をしていることは、共に座って食事をするべきというカストムにも合致し、かつての宣教師らとの違いを際立たせた[5]。労働軍団を設置するにあたり、ポートビラで収監されていたジョン・フラム信者らが、人員不足を補う目的で釈放されたことも、アメリカ軍に好印象を与える要因となった[7]。1943年、ネロイアグ(Neloiag)という島民が、タンナ島およびアメリカの王ジョン・フラムを自称し、アメリカ軍を迎える飛行場の建設を村人たちに命じた。これが植民地行政当局の知るところになるとネロイアグは逮捕されたのだが、まもなく武装した住民が事務所を取り囲み、ネロイアグの釈放を要求し始めた。この際にアメリカ軍は連絡将校と分遣隊を派遣し、事態の収拾を図った。アメリカ軍による説得も試みられたが、これが信仰の規模に大きな影響を与えることはなかった[9]

アメリカ軍人との出会いは、タンナ島の人々に大きな影響を及ぼした。戦前の英仏人は、厳格な奢侈禁止令のもと島民との間の明確な境界を維持することで植民地統治を試みた。しかし、アメリカ軍人はこうした境界への関心が極めて薄く、しばしば現地人と食事をしたり、タバコや衣類を分け与えたり、共に写真を撮るなどしていた。アメリカ軍人の示す「友情」は、一方的で押し付けがましいものに過ぎないことも多かったが、それでも英仏人の振る舞いとは大きく異なっていた[3]

戦後

終戦後、撤退するアメリカ軍が残したものは必ずしも多くはなかった。飛行場や道路、いくつかの兵舎や車両などはそのまま残置されたが、在庫として残されていた物資のうち、必要が無いとされたものは全て海に投棄された。しかし、アメリカ軍の記憶とジョン・フラム信仰は、エファテ島から戻った労働軍団の元隊員らによって明確に結び付けられ、英仏に対する新たな反植民地運動の組織につながった。この時期にはコプラの栽培および販売のボイコットなどが行われたほか、島の北部ではアメリカ軍を再び迎えるための飛行場が作られたという。植民地行政当局は1956年頃まで弾圧を続けた。こうした中でジョン・フラム信仰は徐々に組織化され、関連する政党や教会なども派生した。教義や目標の見直しも進められ、戦時中の体験に基づく様々な儀式やシンボルが考案された[3]。1956年10月、植民地行政当局は活動を合法的な範囲に留める限りにおいて、ジョン・フラム信仰を宗教と認めた。これは全面的な弾圧が終わることを意味していたが、同時に地域や言語などに基づく宗派間対立の表面化を招いた。また、当局への抵抗を続けたグループも一部あった[7]

1957年、当時のジョン・フラム信仰の指導者ナコマハ(Nakomaha)は、タンナ陸軍(Tanna Army)と呼ばれる組織を設立した。これは本物の軍事組織ではなく、儀式の一環としてアメリカ軍の行進・訓練などを再現する組織である。タンナ陸軍では、かつて上半身裸で体にUSAという文字を書いた姿で行進を行っていたが、後にアメリカに住む人物から寄贈された軍服を着用するようになった。行進の際、彼らは先端が赤く塗られた竹槍(着剣した小銃を表す)を担ぐ[2]

1970年代後半、ジョン・フラム信者らは統一国家たるバヌアツ共和国の独立に反対した。彼らは統一政府が近代的・西洋的なキリスト教の信仰を支持する事で古くからの慣習が揺るがされることを恐れたのである。

1973年、元フランス軍人でエファテ島の農園主だったアントワーヌ・フォルネリは、長老派教会から支持された親英派の国民党に対抗する合法的かつ穏健な政党を組織しようと考え、タンナ島に渡った。やがてフォルネリのグループは親交を持ったジョン・フラム運動幹部らの支持を背景に勢力を増し、長老派教会および国民党からも危険視されるようになった。1974年になると政治的緊張は増し、フォルコナ(Forcona)と称されるようになっていたフォルネリのグループはジョン・フラム運動の反植民地的な思想の影響を受け、穏健な政党ではなく独立運動の様相を呈していた。フォルネリは怯えた様子ではあったが、かつて対独抵抗運動に参加した経験もあったため、島の独立やカストムへの回帰という大義には強く賛同した。1974年3月24日に催された大会では、白い軍服と落下傘兵用の赤いベレーを着用したフォルネリのもと、タンナ国の国旗発表、公職の任命、独立宣言が行われた。1974年5月、長老派教会とジョン・フラム信仰間の内戦を恐れた当局は、制服の着用、旗の掲揚、違法な会合のすべてを禁止する共同法令を発行し、フォルコナの鎮圧に乗り出した。6月29日、治安部隊によってフォルネリらは逮捕され、タンナ国の独立は実現しなかった[15]

1978年には式典で初めて星条旗が掲げられた。1982年には星条旗を含む儀式に使われる道具の多くが共和国政府に没収されたものの、後に再び掲げられるようになった[3]

1999年、ジョン・フラム信仰の分裂が起こった。ジョン・フラム運動の幹部だった預言者フレッド(Fred)が、ジョン・フラムとキリスト教を結びつけたジーザス・ジョン(Jesus-John)の概念を提唱し始めたためである。長老派教会信者だったフレッドは、大洪水の予言を成功させた上、まもなく世界は終焉を迎えると語り、島外の住人も含む多くの人々の注目を集めていた。フレッドの支持者はアイザック・ワンの元を離れ、新しい村を作った[2]。この時にはおよそ半数の信者がフレッド派となった。フレッド派では戦時中に投下された物資の話題はタブーとされるほか、式典でも星条旗を含む外国の国旗は掲揚されない。2000年代初頭、両派の対立は斧や弓矢、パチンコで武装した400人以上の若者の暴力的な衝突に発展した。教会や住居の焼き討ちが行われたほか、25人が重傷を負った[5]。2011年にフレッドが死去した後、フレッド派は大幅に信者を減らしたものの、以後も2月15日の式典はそれぞれの村で別々に行われる。これとは別に、ジョン・フラムが初めて現れたとされるグリーン・ポイント近くの集落にも、主流派に対立する分派が存在する。この分派は、アメリカとジョン・フラムは無関係であるとしており、2月15日も記念日とはしていない[2]

タンナ島は、バヌアツの中でも特に文化的伝統が維持されていることで知られているが、これがジョン・フラム信仰のためだと考える者は信者以外でも多い。公教育でも地元の文化や習慣に関する内容が重視され、カストムの一部としてジョン・フラム信仰に触れられることもあるという[2]

関連項目

脚注

  1. ^ Attenborough, David (1960). People of Paradise. New York: Harper & Brothers 
  2. ^ a b c d e f g h i Brooke Jarvis. “Who Is John Frum?”. Topic. 2022年5月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j Lindstrom, Lamont (1991). The Vanuatu Labor Corps Experience. Center for Pacific Studies. pp. 47–58. ISSN 0897-8905. https://core.ac.uk/download/pdf/5104001.pdf 2022年5月15日閲覧。 
  4. ^ a b Western Oceanian Religions: Jon Frum Movement”. University of Cumbria. 2022年5月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e Raffaele, Paul (February 2006). “In John They Trust”. Smithsonian (Smithsonian). https://www.smithsonianmag.com/history/in-john-they-trust-109294882/ 2022年5月15日閲覧。. 
  6. ^ a b John Frum Movement (Tanna Island, Vanuatu)”. Flags of the World. 2022年5月15日閲覧。
  7. ^ a b c d e JOHN FRUM: AN INDIGENOUS STRATEGY OF REACTION TO MISSION RULE AND THE COLONIAL ORDER”. 2022年5月16日閲覧。
  8. ^ Worsley, Peter (1957). The Trumpet Shall Sound: A Study of 'Cargo' Cults in Melanesia London: MacGibbon & Kee. p. 154.
  9. ^ a b c d e Guiart, Jean (March 1952). “John Frum Movement in Tanna”. Oceania 22 (3): 165–177. doi:10.1002/j.1834-4461.1952.tb00558.x. http://horizon.documentation.ird.fr/exl-doc/pleins_textes/pleins_textes_5/b_fdi_16-17/22920.pdf 2020年3月7日閲覧。. 
  10. ^ Worsley, The Trumpet Shall Sound, pp. 153–9.
  11. ^ Tabani, Marc, Une pirogue pour le Paradis : le culte de John Frum à Tanna (Vanuatu). Paris : Editions de la Maison des Sciences de l'Homme, 2008.
  12. ^ Geoffrey Hurd et al., Human Societies: An Introduction to Sociology (Boston: Routledge, 1986) p. 74.
  13. ^ Peter Worsley, From Primitives to Zen, Mircea Eliade ed. (New York: Harper & Row, 1977) p. 415.
  14. ^ Lamont Lindstrom in Cargo Cults and Millenarian Movements: Transoceanic Comparisons of New Religious Movements G. W. Trompf ed. (New York: Mouton de Gruyter, 1990) p. 244
  15. ^ Nation of Tanna (Vanuatu)”. Flags of the World. 2022年5月15日閲覧。

参考文献

  • Attenborough, D. (1960) Quest in Paradise : Lutterworth Press, (reprinted 1963 Pan Books Ltd.)
  • Rice, Edward (1974). John Frum He Come : Cargo Cults & Cargo Messiahs in the South Pacific. Garden City: Dorrance & Co. ISBN 0-385-00523-7 
  • Huffer, Elise, Grands Hommes et Petites Îles: La Politique Extérieure de Fidji, de Tonga et du Vanuatu, Paris: Orstom, 1993, ISBN 2-7099-1125-6
  • Jarvie, I. C. (1964). The Revolution in Anthropology (reprinted 1967) pp. 61–63. London: Routledge & Kegan Paul.
  • Lindstrom, L. (1990) “Big Men as Ancestors: Inspirations and Copyrights on Tanna (Vanuatu)”. Ethnology, vol xxix no. 4. October.
  • Theroux, P (1992) 'The Happy Isles of Oceania' Penguin Books ISBN 0-14-015976-2
  • Nat. Geographic: May 1974. "Tanna (Island, New Hebrides, South Pacific Ocean) Awaits the Coming of John Frum (cargo cults of Melanesia since about 1940)".

外部リンク