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[[享徳]]4年([[1455年]])、持氏の遺児・[[足利成氏]]が[[享徳の乱]]によって[[上杉憲忠]]を謀殺した後、室町幕府が差し向けた追討軍や[[山内上杉氏]]に与する関東の諸豪族と戦い、[[下総国]]の古河に入ったところで鎌倉失陥の報を聞き、そのまま古河に留まり'''古河公方'''と称した。これが'''古河公方'''の起源である。この'''古河公方'''とはあくまでも自称であり正式な官位ではなかったが、関東圏における一大勢力となる。このため、[[長禄]]2年([[1458年]])、[[室町幕府]]は[[足利政知]]を正当な[[鎌倉公方]]として送ったが、鎌倉に入ることが出来ず、結局、[[伊豆国]]の堀越に入り、[[堀越公方]]と称した。
[[享徳]]4年([[1455年]])、持氏の遺児・[[足利成氏]]が[[享徳の乱]]によって[[上杉憲忠]]を謀殺した後、室町幕府が差し向けた追討軍や[[山内上杉氏]]に与する関東の諸豪族と戦い、[[下総国]]の古河に入ったところで鎌倉失陥の報を聞き、そのまま古河に留まり'''古河公方'''と称した。これが'''古河公方'''の起源である。この'''古河公方'''とはあくまでも自称であり正式な官位ではなかったが、関東圏における一大勢力となる。このため、[[長禄]]2年([[1458年]])、[[室町幕府]]は[[足利政知]]を正当な[[鎌倉公方]]として送ったが、鎌倉に入ることが出来ず、結局、[[伊豆国]]の堀越に入り、[[堀越公方]]と称した。


その後は成氏の子孫が代々'''古河公方'''を世襲するようになったが、16世紀前半の頃になると、家中の分裂って[[小弓公方]]・[[足利義明]]が現われて分裂したため衰退する。そして、[[1546年]]、[[足利晴氏]]が[[河越の戦い]]で[[北条氏康]]に敗れて幽閉の身となり、[[1583年]]、晴氏の子・[[足利義氏]]が死去したことで、形式的に続いていた'''古河公方'''は名実ともに滅亡したのである。
その後は成氏の子孫が代々'''古河公方'''を世襲するようになったが、16世紀前半の頃になると、[[督]]争いって[[小弓公方]]・[[足利義明]]が現われて分裂したため衰退する。そして、[[1546年]]、[[足利晴氏]]が[[河越の戦い]]で[[北条氏康]]に敗れて幽閉の身となり、[[1583年]]、晴氏の子・[[足利義氏]]が死去したことで、形式的に続いていた'''古河公方'''は名実ともに滅亡したのである。


==歴代古河公方==
==歴代古河公方==

2006年3月11日 (土) 11:09時点における版

古河公方(こがくぼう)とは、室町時代に関東圏で勢力を誇った公方の一。下総国の古河(現在の茨城県古河市)を本拠とした。

足利尊氏の次男・足利基氏の子孫は代々鎌倉公方(元は関東管領)を世襲したが、次第に室町幕府本体との関係が悪化し、永享10年(1439年)、足利持氏の代に時の将軍足利義教によって滅亡させられる。(永享の乱結城合戦)

享徳4年(1455年)、持氏の遺児・足利成氏享徳の乱によって上杉憲忠を謀殺した後、室町幕府が差し向けた追討軍や山内上杉氏に与する関東の諸豪族と戦い、下総国の古河に入ったところで鎌倉失陥の報を聞き、そのまま古河に留まり古河公方と称した。これが古河公方の起源である。この古河公方とはあくまでも自称であり正式な官位ではなかったが、関東圏における一大勢力となる。このため、長禄2年(1458年)、室町幕府足利政知を正当な鎌倉公方として送ったが、鎌倉に入ることが出来ず、結局、伊豆国の堀越に入り、堀越公方と称した。

その後は成氏の子孫が代々古河公方を世襲するようになったが、16世紀前半の頃になると、家督争いによって小弓公方足利義明が現われて分裂したため衰退する。そして、1546年足利晴氏河越の戦い北条氏康に敗れて幽閉の身となり、1583年、晴氏の子・足利義氏が死去したことで、形式的に続いていた古河公方は名実ともに滅亡したのである。

歴代古河公方

   
名前 在職期間 備考
初代 足利成氏 1455年1497年 第5代鎌倉公方
2代 足利政氏 1497年~1512年
3代 足利高基 1512年~1535年
4代 足利晴氏 1535年~1552年
5代 足利義氏 1552年~1583年
足利藤氏 1561年1562年? 足利義氏の就任を認めない関東管領上杉謙信らに擁立された。
通常、歴代には数えられない
足利氏姫 足利義氏の長女、父の死後に形式上の当主として扱われた。
後の喜連川家の祖。

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