「シャクシャイン」の版間の差分
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戦いが長期化することを恐れた松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一旦はこれを拒否するが、子のカンリリカの勧めもあり結局応じることにする。しかしこの申し出は松前藩の罠であり、10月23日(11月16日)に現在の新冠町に当たる[[ピポク]]の松前藩陣営まで出向いた際、和睦の酒宴の際に潜んでいた武士たちによりシャクシャインは殺害されてしまう。指導者を失った蜂起は次々に松前藩に鎮圧された。 |
戦いが長期化することを恐れた松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一旦はこれを拒否するが、子のカンリリカの勧めもあり結局応じることにする。しかしこの申し出は松前藩の罠であり、10月23日(11月16日)に現在の新冠町に当たる[[ピポク]]の松前藩陣営まで出向いた際、和睦の酒宴の際に潜んでいた武士たちによりシャクシャインは殺害されてしまう。指導者を失った蜂起は次々に松前藩に鎮圧された。 |
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==シャクシャイン像 |
==シャクシャイン像== |
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[[1970年]][[9月15日]]、シャクシャインのチャシが遺跡として残る真歌公園に、シャクシャイン顕彰会によって[[銅像]]が建立された。このシャクシャイン像は[[大和民族|和人]]の彫刻家[[竹中敏洋]]の作品である。しかしこの像が興行的に利用されたことについて、アイヌの側から批判が起きている。 |
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[[1972年]][[9月20日]]、[[結城庄司]]ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた[[町村金五]]知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に[[新左翼]]の[[太田竜]]が加わっていたことから、[[警察]]は[[札幌オリンピック]]を控えた時期を狙った[[過激派]]による事件とし、全国[[指名手配]]の末[[1974年]]に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や[[足立正生]]など他の4人は[[起訴猶予処分|起訴猶予]]となった。 |
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==関連項目== |
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2011年7月19日 (火) 14:59時点における版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/7/7d/Ja-hokkaido-shakushain-zou.jpg/270px-Ja-hokkaido-shakushain-zou.jpg)
シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年(慶長11年)? - 1669年11月16日(寛文9年10月23日))は北海道日高アイヌの首長である。
経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。文献によればメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復の為、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広がった。以前からアイヌは和人から不当な交易、砂金採掘の圧迫を受けており、高まっていたアイヌの和人への不満がこの件により爆発した。これは、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続いたが、渡島半島のアイヌと分断され協力が得られなかったことや幕府や東北諸藩の支援を受けた松前軍が鉄砲を多数装備することが出来たことなどからシャクシャイン側が不利となった。シャクシャインはシベチャリ方面まで撤退し奥地での長期戦に切り替えた。
戦いが長期化することを恐れた松前藩は、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一旦はこれを拒否するが、子のカンリリカの勧めもあり結局応じることにする。しかしこの申し出は松前藩の罠であり、10月23日(11月16日)に現在の新冠町に当たるピポクの松前藩陣営まで出向いた際、和睦の酒宴の際に潜んでいた武士たちによりシャクシャインは殺害されてしまう。指導者を失った蜂起は次々に松前藩に鎮圧された。
シャクシャイン像
1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る真歌公園に、シャクシャイン顕彰会によって銅像が建立された。このシャクシャイン像は和人の彫刻家竹中敏洋の作品である。しかしこの像が興行的に利用されたことについて、アイヌの側から批判が起きている。
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼の太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生など他の4人は起訴猶予となった。