Wikipedia:中立的な観点

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ウィキペディアの内容に関する三大方針

中立的な観点 (NPOV、Neutral Point Of View) はウィキペディアの根本的な方針のひとつです。これは、すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない、というものです。この方針は記事以外のテンプレート、ポータルなどにも適用されます。ウィキペディアの創始者ジミー・ウェールズの言葉によれば、中立的な観点は「絶対的で交渉の余地のないもの」“absolute and non-negotiable” です[1]

中立的な観点とはウィキペディアの内容に関する三大方針の一つです。他の二つの方針は「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」です。ウィキペディアではこれらの方針を合わせて記事名前空間に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互補完的で議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。これらの方針はほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください。

中立的な観点とは

ウィキペディアのコミュニティにおいての中立性とは、さまざまな「信頼できる情報源」を注意深く、批判的に分析し、それらの出典に含まれる情報を読者に明確かつ正確に取り次ぐことを意味します。ウィキペディアの狙いは論争を記述することであり、論争に加わることではありません

執筆者が独自の視点を持っているのは当然ですが、完全な情報を伝えるように誠実に努力しなければいけません。ある特定の観点を他方に優先して推進するものではありませんし、ある特定の観点を除外するものでもありません。

百科事典に適切な中立的観点を達成するために、下記の原則を参照してください。

意見を事実として記さない

一般的に、記事にはそのトピックについて重要な意見を含んでいます。しかしその意見はウィキペディアの意見として記述してはなりません。その代わりに、誰の意見であるかを文章で明記するか、あるいはそれが許される場合なら、大多数の観点などとして述べられるべきです。例えば「大量虐殺は悪行である」と述べてはいけません。しかし「ジョーンは大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と述べることはできます。

深刻な論争がある主張を事実として記さない

もしその主張について異なる信頼できる出典間で衝突があるのなら、その主張については事実ではなく意見として扱い、文中では直接その主張を記述することは避けてください。

論争の余地のない主張を単なる意見として記さない

信頼できる出典によって反論や論争なきものとされた事実の主張であれば、一般的にウィキペディアの意見として記述されるべきです。その言説が異議なき説であることに特に反論が無いのであれば、その主張が誰のものかを記述する必要はありません(しかし出典脚注は検証可能性を満たす助けとなります)。また、その説について論争が存在するかのような表現で記述すべきではありません。

判断を下さない表現が好まれる

明瞭性とのバランスも考慮する必要がありますが、中立的観点は、トピックや信頼できるソースの主張に対して同情も攻撃もしません。ある意見について組み入ることなく、公平無私な言い回しをしてください。

対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す

そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください。例えば「地球の形状について、フェルディナンド・マゼランの調査では球体だとされ、ジョン・ハンプテンはわん曲した平面体だとしている」といった記述は、ある領域についての大多数の観点と極少数の観点を同等に伝えてしまっています。

中立性を達成するために

一般的には、出典を明記した情報である場合、偏っていると思われる記述をそのために単に削除する手法は避けてください。その代わりに、文や説をもっと中立的な言い回しに書き換えられないか試みてください。偏った情報は、たいていの場合、信頼できる他の情報源からの出典を加えることで、より中立的な観点に修正することができますので、中立性に関する問題は可能な限り編集によって解決すべきです。情報を削除するのは、それが読者に誤解やミスリードを招き、かつその部分を推敲する方法では解決できないとする妥当な理由があると考えられる場合だけです。

この節では、一般的な問題についての個別ガイドラインを示します。

良質な研究

良質で偏りのない研究に基づく、信用され権威のある情報源が存在するのであれば、それは中立的な観点についての論争解決の助けとなります。図書館で評判の良い書籍・論文を探したり、オンラインで最も信用されている情報源を探してください。

もし何かに関しての高品質な情報源を見つけるのに手助けが必要であれば、記事のノートページで他の編集者に尋ねたり、Wikipedia:調べもの案内で質問したりしてください。

不偏的な言い回し

ウィキペディアの目的は論争を記述することであり、論争に加わりはしません。 論争を中立的に描写するために、一貫して不偏的な言い回しで視点を記述することが求められます。そうでなければ、たとえ適切な観点に基づいて記述しようが、その記事は支持者らによる実況行為に終わってしまうからです。 不適切な言い回しは、意見の形を取られることもありますし、また事実の論述に用いる言葉という形で取られることもあり、さらにトピックの選択・記述・編成などの形で取られることもあります。 中立的な記事とは、記事中の全ての観点について偏見なく正確でバランスが取れており、かつ不偏的な言い回しで書かれたものであるべきです。

ウィキペディア記事の言い回しは偏見を含めてはならず、ある観点を支持したり排除するものであってはなりません。 論争が過熱している時には、特定の支持者の情報を直接そのまま記述することは避け、代わりにその主張を不偏的な言い回しを用いて要約して記載できないかを試みてください。

中立的観点に関する議論

偏った記述は帰属化・明確化する

偏った論述は、それを主張する論者に帰属化した形での記述に限って含めることができます。

例えばウィキペディアでは、「ジョーン・ドゥは最も優れた野球選手である」と言わんとする論について、読み手が事実と受け取るような表現で記述してはいけません。「ジョーン・ドゥの野球技術は、アル・カーリンとジョー・トーアといった野球関係者から賞賛されている」といった事実に基づく意見としては記載することができます。しかしその意見は検証可能性を満たし信頼可能で適切な出典に基づかなければなりません。

他の方法として、事象の詳細を述べることで記述を特定化具体化するという方法があります。例えば「ジョーン・ドゥは2003年から2006年までの間、メジャーリーグにて打率一位であった。」といった記載ならば、それを自ら主張せずとも人々は彼が最高の野球選手であったと評するでしょう。

記事内に執筆者の個人的な意見を書いたり、また偏った記述を濁した言葉避けるべき言葉で書き換えて対応してはいけません。例えば「多くの人々はジョーン・ドゥが最も優れた野球選手だと思っている」といった記載では「誰が?」「どの程度?」といった反論がなされるのは尤もです。例外的に「多くの人々は…」といった記載が許されるのは、信頼できる文献が、そのグループに対し調査を行っている場合などです。

はじめに

ウィキペディアには大切な方針があります:大まかにいえば、全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべきだ、というものです。これは、記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。

ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というものなのです。

記事を中立的なものにするためには、我々の共同作業が不可欠です。それはウィキペディア成功の秘訣のひとつでもあります。

中立的な観点からの記事の執筆は鍛錬を必要とし、ひとつのアートともいえるものです。

以下のエッセイでは、このポリシーについて踏み込んで説明しますが、このエッセイ自体、多くの議論の賜物です。我々はあなたもこのエッセイを読み、それについてコメントし、大筋において理解するように強くお勧めします。

中立性の基本的な概念

ウィキペディア成功のカギともいえる方針は、記事が「偏っていない」あるいは「中立的な観点」から書かれているべきだ、というものです。これらの用語は一般とはやや異なった意味で使われています。私たちがどのように中立性を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。このページを丁寧に読めば理解する助けとなるでしょう。

基本的には、偏りのない(中立的な観点から)記事を執筆するということは、特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明することです。これはやや単純な定義で、もっと細かな点に配慮した定義は後に書きます。今の時点では、偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ、と言っておくことにします。

なぜウィキペディアが中立的であるべきか

ウィキペディアは一般用の百科事典です。これは、様々なレベルでの一般的な知識を集めたものと言えます。しかし、私たち(人類)は全ての物事について同じ見方をしているわけではありません。複数の異なる論理に基づいた意見同士が競合するときや、他の視点から見ると矛盾が生ずる意見があるとき、一つの意見を固守する人は他の意見を間違いと信じ込み、知識と思わなくなってしまいます。なにが真実であるか意見が食い違う時は、何が知識であるかについての見解が異なっていると言えます。ウィキペディアは共同作業だからこそうまくいく試みです。ですが、このような見解の相違から、ある人が p であると書き、次に編集する人が p ではないと書き直すような、終わりのない「編集戦争」をどうしたら避けられるでしょうか?

ウィキペディアの作業をする上で私たちが受け入れている解決策は、「人類の知識」は(意義のある、出版されている)全ての異なる観点を含む、というものです。私たちはそのような意味での人類の知識を提供することに最大限の注意を払っています。これは「知識」という語の意味としては、一般に広く受け入れられているものとそう変わらないでしょう。この意味で「知られていること」は時間と共に変化しますし、このように「知っている」という言葉を使うときには、引用符を使って表現することがあります。中世では、私たちは魔神が病をおこしたことを「知っていた」。今日では、そうではないことを「知っている」。(訳注:直接誰かの発言や文章を引用するわけではなく、それらの記述が自分の考えではないことを強調するべく、引用符を使うわけです。注意喚起の引用符英語版参照)

私たちはこういう意味での人類の知識を、偏った形で編纂することもできるでしょう。あるトピック T について、様々な理論を説明し、その後で T についての真実はこれこれである、と主張します。ですが、ご存知のように、ウィキペディアは国際的な共同作業のプロジェクトです。おそらく、プロジェクトが成長するに従って、ほとんど全ての事柄についての全ての観点が(いずれは)編集・執筆する人や記事を読む人の中の誰かに支持されることになるでしょう。終わりのない編集戦争を避けるためには、様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべきです。そしてそれが、このページで言う記事を「偏りのない」「中立的な」ものにする方法です。中立的な観点から記事を書くことは、論争の種になっているトピックについて主張を含めずに書くことです。そのためには、競合する観点についてそれぞれの支持者にとって多かれ少なかれ納得がいくような形で記述すれば事足りることがほとんどです。

このポリシーの基本的な根拠を今一度まとめると:ウィキペディアは百科事典であり、人類の知識を編纂するものです。しかしウィキペディアは国際的な利用のために共同編集されるものです。編集に携わる人々全ての間で全ての事柄について(あるいは多くの事柄について、であっても)、人類が手にしている知識にどのようなものがあるかについて特定の観点を共有することは望めません。そこで、人類の知識についてやや緩やかな見方をして、互いに競合する様々な理論がどれも人類の知識の一部である、と考えることにします。私たちは、ひとりひとりが、そして全体としても、競合する諸理論が公正に提示されるように、特定の立場が主張されないように、努力するべきです。

中立性の方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私たちが特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります。もしもわれわれが中立性のポリシーを維持することに成功したら、世界中の全体主義的な政府や独断的な組織はウィキペディアに反対することになるでしょう:広範な問題について、競合する様々な理論を提示することは、ウィキペディアのクリエイターが、読者が各自で意見を形成する能力を信頼する、ということを示します。複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです。

中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?

これらの用語が意味している点は一般的に見て明白ではないし、誤解されやすいものだと思われます。

「偏りのない」「中立的な」という言葉についてはいろいろな妥当な解釈がありえます。ですが、ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」というものです。これにはもう少し説明が必要でしょう。以下にそれを示します。

まず、最も重要なことは、論争の種になるような立場を、主張することなく単に記述する、ということがどのようなことかを考えてみることです。偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。全ての観点を提示するということは、p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というような記述をすることです。全ての観点を提示するにあたって、誰がどのような理由で p や q を信じており、どちらがより広く支持されているか、といった背景の説明を大量に供給できることが理想です。(広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。)詳細に書かれた記事であれば、p 主義者と q 主義者がお互いをどのように評価しているか、それぞれの立場が、相手に対して持っている強みなどを説明しつつ、どちらが優れた立場であるかについては確固として言及を避けることになるでしょう。

この点について、もう少し詳しく説明すべきでしょう。中立的な観点は、論争となっている点をめぐる多くの立場の中の、比較的「中立的」な、あるいは「中間的」なひとつの観点ではない、と上に書きました。これは「中立的な観点」という語についての特殊な理解に基づくものです。ウィキペディアにおいて多くの支持を得つつある理解では、「中立的な観点」とは実際にはひとつの観点なのではなく、「中立的に記事を書くことは、どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが正しい、ということになります。

もうひとつ説明しておくべきことがあります。偏りのない記述をするということは、ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をすることである、と考えることもできます。ここでの偏りのない記述とは、論争について冷静で、公正で、分析的な描写だと考えていいでしょう。当然ながら、いずれの立場も正しいと暗示することなく、複数の観点を記述することなど可能だろうか、という疑いがあります。ですが、経験を積んだ学者、論争好きな著述家、レトリックの研究家などはみな、自分や他人の記述の偏りについてよくわきまえていて、論争の説明にどちらか一方の側をひいきするような偏りがあれば、それを見つけることもできるものです。もし望むなら、彼らは、多少の創造性を発揮し、その偏りを取り除くこともできます。

釣り合いのとれた重みづけ

重要な制限事項がひとつあります。複数の観点を比較する記事では、少数派の意見について、より広く普及している観点と同じだけの詳細な説明を加える必要はありません。論争を説明する際には、少数の人々が支持する観点が、あたかも非常に広く受け入れられている観点と同じだけ注目に値するかのような書き方をするべきではありません。それは論争の形について誤解を与えかねません。公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門家や関係者の勢力に合わせて提示すべきです。しかし、これは少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。ウィキペディアにはサイズの制限はありません。そのようなページにおいて、その観点が詳細に説明されているかも知れませんが、その観点が真実であるといった形で表現されるべきではありません。

観点の偏りは、特に意識されていたり、熱狂的に支持されているとは限りません。例えば、ある分野の入門者は、論争の余地のない常識に聞こえることが実は特定の、論争の種になるような見方に結びついている、というようなことをしばしば見落とします(そこで、記事の偏った見方を完全に取り除くためには専門家が必要になることも稀ではないわけです)。別の例を挙げれば、執筆者は、意図せずして「地理的」な見方の偏りを記事に反映させてしまい、ある論争がある国でどのようであるかについて、他の地域ではその論争が違う様相を呈していることを知らず、地域を明記しないままに書いてしまったりします。

この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け…だが意見は書くな

この方針はしばしば別の言い方で表現されます:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け…だが意見は書くな。ここでまず、「事実」という言葉は、特に深刻な論争の種になっていない情報を意味します。この意味で、「ある調査が特定の調査結果を出版したこと」は事実です。火星が惑星であることも事実です。2+2 = 4 も。ソクラテスが哲学者であるということも。これらについて真剣に反論するような人はいません。ウィキペディアンはこうした事実を思う存分記述します。その一方、「意見」という言葉は、何か深刻な論争の種になっている情報を意味します。特定の論争を「深刻」と見なすかについて確信が持てないような、判断の難しいケースも当然あります…ですが、意見を表明する記述も多くあります。神は存在する、というのは意見です。直観論理は日常論理より優れている、というのは意見です。

何かが事実であるか意見であるかを判断するには、実際に物事がどうであるかは関係がありません。理論上は、誤った「事実」(全ての人が合意するが実際には誤っている観点)がありえますし、真実に照らして正しい「意見」は数多く存在します。ただし数の上では誤った意見の方が多いようではあります。

ウィキペディアはこのような意味での事実だけを記述することに捧げられています。意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。つまり、「神は存在する」と意見を書く代わりに、「アメリカ人のほとんどが神が存在すると信じている」という事実や、「トマス・アキナスは神が存在すると信じた」という事実を書けばいいわけです。最初の例では意見を表明していますが、次の 2 つの例では意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えています。もうひとつ重要なことは、意見を提示する際に、意見がどのように提示されるべきかについて意見が衝突することもあるということを忘れないことです。場合によっては、主題についての主要な意見全てを公正に記述し、全般的な特徴を説明するために、ある意見の説明を限定したり、いくつかの定式化された記述を提示するにとどめたりすることが必要になることもあります。

ですが、ウィキペディアの中立性のポリシーについて、それは事実だけを記述し意見は控えるというものだと言うだけでは不十分です。ある意見についての事実を述べる時には、その意見に対立する意見についての事実を述べ、かつ、それらの意見のどれか一つが正しいと示唆せずにおくことも重要です。一般的に、それら対立する意見の背後にある考え方や、誰がそうした意見を支持しているかについての事実を提供することも重要です(その意見を代表するような人物を引用することが、しばしば最適の方法です)。

フェアであることと、好意的な立場

もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。例えば、ある立場に対立する意見を紹介しながらそれを否定する説明を行うと、そうした対立意見を「対立意見」のセクションにまとめて紹介する場合と比べて、ずっと説得力がなくなります。

こうしたことをするかわりに、記事を書く時には、説明されている全ての立場は、少なくとも賛成できそうに思えるものだというトーンで書くべきです。全ての競合する立場を好意的に説明しましょう。例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます。もしこういう書き方ができなければ、記事の内容にはいろいろ問題が残り、後に他の人の編集の際にそれを中和するような変更がなされることになるでしょう。

芸術作品などの特徴に関する意見

特別なケースがひとつ考えられます。審美的な判断にかかわるものです。ウィキペディアの記事の一部はアート、アーティスト、その他クリエイティブな話題(例えばミュージシャン、役者、本、テレビゲーム、など)を扱うもので、執筆者が感じたことを表現する傾向にあります。これは、百科事典にそぐわない記述だと言えるでしょう。だれそれが歴史上最も偉大なベーシストである、といったことについてはわれわれは意見の一致を見ることができないでしょう。ですが、あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて記述する、のはよいことです。例えば、シェイクスピアが英語による著述家の中で最も偉大な人の一人だということは、どこかの生徒が百科事典から学ぶべき重要な知識でしょう。ただし、注意して下さい…作家や作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要でしょう。ですが、そのような情報は百科事典にとっては非常に重要ですが、ウィキペディアの執筆者による独自の見解は重要ではありませんし、載せるべきではありません。

ひとつの帰結:敵のために書く

例えば政治的に論争の的になっているような事柄について常に自分の観点を主張しようとして、他の観点がフェアに提示されているかどうかについては気にしない人は、この中立性のポリシーに違反しています。中立性の方針は、執筆者が自分の立場だけでなく、自分と反対の立場についてもきちんと説明するように求めています。このポリシーを守るように努力しなければ、ウィキペディアはいまよりもずっと頼りない情報源になってしまうでしょう。われわれは皆、各人の観点をできるだけ好意的に説明するように努力すべきです。

これは、一部の人にとっては既に明らかな事を明文化しただけのものです。もしもわれわれ各人が完全に偏った文章を投稿してもよいとしたら、そもそも中立性のポリシーに誰かが違反するなどという可能性がどこにあるでしょうか? このポリシーの命じるところは、「中立的な観点から書け」というものです。もしも、このポリシーが「同意できない立場についても、フェアに説明を行うように各人が努力すべきだ」ということを意味しないとしたら、何を意味するでしょうか? あるいは、こう考える人もいるかも知れません「自分の立場をフェアに提示すべきだ、そして他の人がそれを編集するのを受け入れるべきだ」これは解釈としては少しは意味が通るかもしれません、でも少しだけです。もしも「ページを保存」するボタンを押す時、そのユーザーが記事の全文に責任を負っているのだとしたら、そのユーザーが自分の賛同する立場だけを説明したり、対立する立場をフェアに説明しなかったり、不完全な形で説明したりしているような場合には、その人はウィキペディアに偏った見方を付け加えていることになります。このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそういうこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。

あるユーザーが自分と反対の立場についてのフェアな説明を試みたところで、当の反対の立場に立つ人は、その説明が不十分なものだと考えるかも知れません。ですが、重要なのは説明が成功するか失敗するかではなく、フェアな説明を試みるべきだという考え方です。中立性をめぐる論争がある時に、全ての立場がフェアに説明されていなければならないし、誠意を持って自分の立場以外の立場をフェアに説明しようと試みなければならないという考え方をわれわれが共有していれば、その論争の解決はずっとうまく行きます。そしてそのような態度は、何も試みないことよりもずっと相手方の理解や謝意を得ることになります。

「敵のために書く」と言えば、あたかもわれわれが欠陥のある議論をわざわざウィキペディアに追加するという奇妙なことをしているかのように思われるかも知れません。ですが、ともすれば不可解なこの行動について、(出版されている中で)最良の反論を、できるだけ賛同するような立場から追加しているのだ、できればその反論を、記事中で紹介しているのと同じ形で提唱している著名な人物を引用しようともしているのだ、と考えるのがいいと思います。学者、例えば哲学者は常にこういうことをします。

ひとつの例

偏った見方から書かれた文章の例と、ウィキペディアの参加者がそれをどんな風に比較的偏りのない記事にして行ったかを考えてみることは、この問題についての理解の助けになるかも知れません。

2001年初頭に、英語版の妊娠中絶の記事 (en:Abortion) は、自分の意見を声高に唱えようという何人かの参加者によって、レトリックの応酬のようなものに使われました。どのような議論が紹介され、それら対立する立場がどのように提示されるべきかについての合意に達することもできない状態でした。その記事に必要だったのは、様々な時代における妊娠中絶の道徳的、法的な正当性についての様々な立場を扱う踏み込んだ議論でした。そのような諸立場の議論は慎重にデザインされ、どのような特定の立場もひいきされないように工夫されました。これにより、妊娠中絶をとりまく様々な立場が、好意的な視点から強みと弱みと共に紹介されることになり、それらの諸立場を整理し、理解することを容易にしました。

他にも、事実上特定の立場の推進のために書かれる形で始まり、その後、全ての立場を明確に、好意的に提示するように心がけている人々によってきれいに仕上げられることになった記事の成功の物語はたくさんあります。

よくある批判と回答

以下に挙げるのはウィキペディアの中立性の方針についてのよくある反論、質問です。回答はリンク先あるいはFAQにあります。

  • 客観的な視点など存在しない
    客観性などというものは存在しない。少しでも哲学的に洗練された人なら誰でも知っていることだ。それなのにどうして「中立性」のポリシーを真剣に受け止めることができるのか? 中立性、つまり偏りのない見方、というのは端的に不可能だ。
  • 疑似科学と科学を対等に扱うのか
    疑似科学のトピックについての記事はどのように書くべきでしょう…科学者の大部分がその疑似科学の意見は信用できないもので、真剣にとりあげる値打ちもない、と考えている場合には?
  • 差別主義についてはどうか
    ほとんどの西洋人にとって感情を害するような見方…人種差別、性差別、ホロコーストの否定などはどうでしょうか?これらの見方を実際に持っている人はいるわけですが。もちろんわれわれはこれらの見方について「中立」であるべきではないですよね?
  • 有害な考えを広めてしまうのではないか
    ちょっと待った。科学対疑似科学についてのその楽観的な見方は、きちんとした考えがあってのものだろうか?疑似科学を支持する人は嘘をついたり、敵を口汚く罵ったり、何かをほのめかしたりして事実を追い払ってしまうことは歴史が示している。疑似科学を信じる人の多くはその見方を他の人に対してすぐ押し付けようとすることも。もしこのプロジェクトが地球が平らだと主張する人やホロコーストはなかったと主張する人にも平等な妥当性を認めるとしたら、(そういうつもりではないとしても)結果としてそうした人たちに正統性を与えてしまい、害悪としかいいようのないものが普及するのを助けることになってしまうことになる。
  • アメリカ中心主義への批判
    ウィキペディア英語版はアメリカ中心主義的な観点をとっているように見えます。これは中立的な観点のポリシーと矛盾しませんか?
  • 偏った意見を削除して良いか
    中立性の観点のポリシーは、偏った見方から書かれた文章を削除する理由として持ち出されます。これは問題ではないでしょうか?
  • どうしようもなく偏った執筆者がいる
    中立性の観点のポリシーには賛成しますが、完全に、手の施しようのないくらい見方が偏った人がいます。彼らの投稿を編集しなければなりません。どうしたら良いんでしょうか?
  • 中立性に関する争いについて
    中立性に関する果てしない争いをどうやったら終わらせることができるでしょう?
  • 争いのある主題についての長い記事
    こんな場合はどうでしょうか? …ある事柄について、複数の、長い記事を書く場合には、反論の余地のある前提を受け入れて書かなければ記事が書けないのではないでしょうか? 例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?
  • 敵を応援などしたくない
    「敵のために書く」という話には納得が行きません。敵のためには書きたくないです。敵に当たる人のほとんどは、誤りだと証明できるようなことを事実として主張するという手段に頼って議論しています。中立的な観点のためには、同意できないような観点を善意を持って説明するために、私も彼らと同じような嘘をつかなければならないというのでしょうか?
  • もっと別の反論があるのですが、どこに書いたらいいでしょうか?
    反論を書く前に、以下のリンクを参照して下さい。中立性の観点をめぐる多くの物事は、非常に多く議論されてきました。もしもその議論に貢献できるようであれば、ノートのページが利用できます。(註:全て英文)

脚注

関連項目

外部リンク