点石斎画報

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1895年台湾民主国の記事
点石斎画報
各種表記
繁体字 點石齋畫報
簡体字 点石斋画报
拼音 diǎnshízhāi huàbào
日本語読み: てんせきさい がほう
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点石斎画報』(てんせきさいがほう)は、中国清代末期の上海で刊行された絵入り新聞[1]。当時の時事から民俗まで様々な内容が載っている。

1884年5月(光緒10年4月)に創刊され、1898年8月(光緒24年8月)528号の終刊まで[2][注釈 1]、当時最新の石版印刷で刊行された[3]、代表的な清末の石印画報中国語版。発行元はアーネスト・メイジャーらが創業した申報館[3][4]。挿絵は呉友如らが描いた[3]

概要[編集]

記事の内容は多岐にわたり、清仏戦争日清戦争などの政治時事から[3]蒸気機関車エレベーターなど最新のテクノロジー[1][3]、市井のゴシップ事件[3]、末期の科挙[1][5]民俗[6][7]妖怪[6][8]、当時珍獣だったゾウ[1]UFO[9]まで様々な事物が扱われた。日本を含む外国についての記事も多い[10][1][8]。また付録として、王韜文言小説淞隠漫録』が連載された[11]

「点石斎」という名は、発行元の申報館付設の印刷所「点石斎石印書局」に由来する[5]。「点石」は石版印刷技術を表し、また成語の「点石成金」(点鉄成金ともいう、不十分な文章に手を入れて立派な文章にすること)も含意する[5]

価格は5(子供のおやつ代程度)、体裁は線装本冊子で各号8葉9図(=絵入り記事9つ)、発行は月3回(6日、16日、26日)の旬刊だった[12]。また、12号毎に1集として合冊版も販売された[12][注釈 2]

創刊経緯として、同社既存の『申報』や『寰瀛画報』よりも大衆受けする新聞が必要とメイジャーが考えたこと[13]、当時欧米で『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』『イリュストラシオン』などの絵入り新聞が流行しており[14][注釈 3]挿絵の黄金時代)、メイジャーがこの流行を中国にも導入しようと考えたこと[16]、当時進行中の清仏戦争の報道需要が高まっていたこと[13]、などがあった。

創刊から人気を博し、中国各地に販売所が設けられた[16]。本紙の成功を受けて、他社から模倣も出たが、継続期間も品質も本紙が突出していた[17]魯迅包天笑中国語版も本紙に言及している[18]

現代の中国学では、1980年代から影印出版、2010年代から電子化が進み[3]歴史資料図像資料として様々な文脈で参照されている。日本では武田雅哉が第一人者とされる[3]。それ以前にも青木正児が着目していた[19]

イラスト[編集]

画法はペン画遠近法など西洋のものが積極的に使われた[20][1]。画法・画題ともに、花鳥画のような伝統的な中国絵画を逸脱しているため、守旧派から非難されることもあった[21]。エレベーターなどのイラストは絵師の伝聞と想像により描かれた[1]

絵師は主に上海蘇州年画描きをしていた中国人約20人だった[22]。その中心人物として呉友如(ご ゆうじょ、1840年頃 - 1894年)がいる[3]。呉友如は、江蘇省元和県(蘇州)出身の年画描きで、幼少期に太平天国の乱を避けて上海で絵を修得し、当時の両江総督曽国荃の推薦で朝廷に召され『金陵功臣戦績図』を描くほどの人物だった[22]。呉友如は『点石斎画報』に創刊から携わった後、1890年秋に独立して『飛影閣画報』を創刊した[23]。没後の1909年には、作品集『呉友如画宝』が刊行された[23]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 終刊については諸説あり、1894年説、1896年末説もある[2]
  2. ^ 各集には十干十二支八音六芸などから一字が与えられた[12]
  3. ^ 日本では『風俗画報』がこれにあたる[15]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 中国の絵入新聞『点石斎画報』展”. www.library.pref.osaka.jp. 大阪府立中之島図書館. 2023年3月10日閲覧。
  2. ^ a b 永崎 2020, p. 111.
  3. ^ a b c d e f g h i 相田 2020, p. 7f.
  4. ^ 永崎 2020, p. 110.
  5. ^ a b c 湯城 2021, p. 1.
  6. ^ a b 相田 2015.
  7. ^ 相田 2020.
  8. ^ a b 東洋文庫ミュージアム【3】新聞に描かれた「二本足の魚」に壇蜜驚く”. NEWSポストセブン. 2023年3月8日閲覧。
  9. ^ 明木茂夫古代中国にUFOは飛来していたか? (其一) : 古典文献の基本的な使い方からの考察 利用統計を見る」『中京大学教養論叢』第42巻、第4号、中京大学教養部、2002年http://id.nii.ac.jp/1217/00010652/ 17頁。
  10. ^ 石 2004.
  11. ^ 黒川 2012, p. 2f.
  12. ^ a b c 中野 & 武田 1989, p. 12.
  13. ^ a b 三山 2013, p. 64.
  14. ^ 三山 2013, p. 58.
  15. ^ 永崎 2020, p. 113.
  16. ^ a b 中野 & 武田 1989, p. 14.
  17. ^ 三山 2013, p. 56.
  18. ^ 中野 & 武田 1989, p. 21f.
  19. ^ 青木正児『中華名物考』平凡社〈東洋文庫〉、1988年(原著1959年春秋社)。ISBN 4582804799 5頁。
  20. ^ 三山 2013, p. 71.
  21. ^ 中野 & 武田 1989, p. 20.
  22. ^ a b 中野 & 武田 1989, p. 16f.
  23. ^ a b 三山 2013, p. 74.

参考文献[編集]