両江総督
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両江総督(りょうこうそうとく、満洲語:ᡤᡳᠶᠠᠩᠨᠠᠨ
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ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯᠠᡵᠠ
ᠠᠮᠪᠠᠨ、転写:giyangnan giyangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。江蘇省・安徽省・江西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも管轄下に南京を有する両江総督は非常に重要なポストであったが、同時に管轄下で起こった太平天国の乱に対応しなければならない等、「非常に難しいポスト」でもあった。この「両江」とは、江蘇・安徽省が清初には「江南省」と呼ばれていたため、「江南省と江西省を統括する総督」と呼んだことに由来する。
1866年からは華中の外国貿易港の監督も両江総督の管轄となったため、両江総督が南洋通商大臣を兼任することになった。
沿革
[編集]- 両江総督の前身は1647年(順治4年)に設置された江南江西河南三省総督である。当時の総督府は江寧に置かれた。
- 1652年(順治9年)、官職名が江西総督に変わって総督府も南昌に移るが、すぐに元の名に戻される。
- 1661年(順治18年)、江南総督・江西総督に分離。
- 1662年(康熙元年)、長江の河川工事監督(河道総督の仕事の一部)が江南総督の管轄になる。
- 1665年(康熙4年)、両江総督に統合。
- 1674年(康熙13年)、江南総督・江西総督に分離。
- 1682年(康熙21年)、正式に両江総督に統合。
- 1723年(雍正元年)、両江総督が『兵部尚書兼都察院右都御史』も兼任するようになる。
- 1831年(道光11年)、専売品である食塩の両淮における管理を両江総督の管轄とした。
- 1866年(同治5年)、南京条約によって開港した5港(広州・福州・アモイ・寧波・上海)での貿易(五口通商)の監督業務(南洋通商大臣)が両江総督の兼任となる。
- 1875年(光緒元年)、洋務運動の一環として、両江総督配下に「南洋艦隊(南洋水師)」を組織する。
- 1909年(宣統元年)、南洋艦隊の巡洋艦級以上を北洋艦隊に合流させ、砲艦級で「長江艦隊」を組織する。
総督府
[編集]総督府は江寧城(現南京市)中部の漢府街にある漢王(明代に陳友諒の後胤が封じられた)府の跡に置かれた。 1853年-1864年の太平天国の乱で太平天国軍に南京が占拠されると、首領の洪秀全はここを拡張して極彩色に輝く天王府を建設した。1864年に太平天国が崩壊して天王府が破壊されると、曽国藩はここに昔ながらの総督府を再建した。1909年には南京城内を通り抜ける寧垣鉄道の駅がここにできた。
辛亥革命が起こると、1912年にはここに「中華民国臨時大総統府」が置かれ、1927年から1949年にはここに国民政府と中華民国総統府が置かれた。現在は「南京中国近代史遺址博物館」となっている。
歴代総督
[編集](「No.」が「*」の人物は代理)
No. | 姓名 | 原籍/旗籍 | 任命 | 退任 | 退任理由/備考 |
江南江西河南総督(順治4年―順治6年) | |||||
1 | 馬国柱 | 漢軍 正白旗 |
順治4年7月戊午 1647年8月19日 |
順治6年8月辛亥 1649年9月30日 |
河南が管轄から外れる |
江南江西総督(順治6年―順治18年) | |||||
1 | 馬国柱 | 漢軍 正白旗 |
順治6年8月辛亥 1649年9月30日 |
順治11年9月丁未 1654年10月30日 |
病気退任 |
2 | 馬鳴佩 | 漢軍 正白旗 |
順治11年10月 1654年 |
順治13年5月己酉 1656年6月23日 |
病気退任 |
3 | 郎廷佐 | 漢軍 鑲黄旗 |
順治13年5月己酉 1656年7月3日 |
順治18年9月丁亥 1661年11月2日 |
江南総督に職名変更 |
江南総督(順治18年―康熙4年) | |||||
1 | 郎廷佐 | 漢軍 鑲黄旗 |
順治18年9月丁亥 1661年11月2日 |
康熙4年5月丁未 1665年7月4日 |
整理統合して江西総督になる |
江西総督(順治18年―康熙4年) | |||||
1 | 張朝璘 | 漢軍 正藍旗 |
順治18年9月丁亥 1661年11月2日 |
康熙4年5月丁未 1665年7月4日 |
整理統合して両江総督になる |
両江総督(康熙4年―宣統3年) | |||||
1 | 郎廷佐 | 漢軍 鑲黄旗 |
康熙4年5月丁未 1665年7月4日 |
康熙7年11月己酉 1668年12月17日 |
病気退任 |
2 | マルギ (margi、麻勒吉) グワルギャ氏 |
満州 正黄旗 |
康熙7年12月癸酉 1669年1月10日 |
康熙12年5月庚寅 1673年7月5日 |
降格して転任 |
3 | アシヒ (asihi、阿席熙) グワルギャ氏 |
満州 鑲紅旗 |
康熙12年6月甲寅 1673年7月29日 |
康熙20年12月 1682年 |
降格 |
4 | 于成竜 | 山西永寧 | 康熙20年12月癸卯 1682年2月1日 |
康熙23年5月丁丑 1684年6月24日 |
死亡 |
5 | 王新命 | 漢軍 鑲藍旗 |
康熙23年5月甲申 1684年7月1日 |
康熙26年3月乙酉 1687年4月18日 |
閩浙総督に異動 |
6 | 董訥 | 山東平原 | 康熙26年3月己丑 1687年4月22日 |
康熙27年3月丁酉 1688年4月24日 |
降格して転任 |
7 | フラタ (fulata、傅拉塔) イルゲンギョロ氏 |
満州 鑲黄旗 |
康熙27年4月戊申 1688年5月5日 |
康熙33年6月丁酉 1694年7月22日 |
死亡 |
8 | 范承勲 | 漢軍 鑲黄旗 |
康熙33年6月丙辰 1694年8月10日 |
康熙37年10月甲寅 1698年11月15日 |
|
9 | 張鵬翮 | 四川遂寧 | 康熙37年11月壬辰 1698年12月23日 |
康熙39年3月癸卯 1700年4月28日 |
河道総督に異動 |
* | 陶岱 (トーダイ) グワルギャ氏 |
満州 正藍旗 |
康熙38年5月庚午 1699年5月30日 |
吏部右侍郎が代行 | |
* | 陶岱 グワルギャ氏 |
満州 正藍旗 |
康熙39年3月癸卯 1700年4月28日 |
康熙39年5月癸卯 1700年6月27日 |
吏部右侍郎が代行 |
10 | アサン (asan、阿山) イラリ氏 |
満州 鑲藍旗 |
康熙39年5月丁未 1700年7月1日 |
康熙45年11月甲戌 1706年12月24日 |
刑部尚書に移る |
11 | 邵穆布 (ショームブ) ボルジギン氏 |
満州 鑲藍旗 |
康熙45年11月辛巳 1706年12月31日 |
康熙48年7月 1709年 |
|
12 | ガリ (gali、噶礼) トゥンギャ氏 |
満州 正紅旗 |
康熙48年7月辛卯 1709年8月27日 |
康熙51年2月丁巳 1712年3月10日 |
解職 |
* | 郎廷極 | 漢軍 鑲黄旗 |
康熙51年2月丁巳 1712年3月10日 |
康熙51年10月丙寅 1712年11月14日 |
江西巡撫が代行 |
13 | 赫寿 (hešeo、ヘシェウ) シュムル氏 |
満州 正紅旗 |
康熙51年10月丙寅 1712年11月14日 |
康熙56年4月丙申 1717年5月22日 |
理藩院尚書に移る |
14 | 長鼐 (cangnai、チャンナイ) ヘシェリ氏 |
満州 正白旗 |
康熙56年4月甲辰 1717年5月30日 |
康熙61年10月 1722年 |
死亡 |
15 | チャビナ (cabina、査弼納) ワンギャ氏 |
満州 正黄旗 |
康熙61年10月辛未 1722年11月27日 |
雍正4年4月己卯 1726年5月18日 |
京城に召還される |
* | 范時繹 | 漢軍 鑲黄旗 |
雍正4年4月己卯 1726年5月18日 |
雍正8年3月甲午 1730年5月12日 |
馬蘭鎮総兵が代行 |
* | 史貽直 | 江蘇溧陽 | 雍正8年3月甲午 1730年5月12日 |
吏部左侍郎が代行 | |
16 | 高其倬 | 漢軍 鑲黄旗 |
雍正8年5月癸酉 1730年6月20日 |
雍正9年7月丁卯 1731年8月8日 |
雲貴総督が代行 |
* | イェンギシャン (yengišan、尹継善) ジャンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
雍正9年7月丁卯 1731年8月8日 |
雍正10年9月庚寅 1732年10月24日 |
江蘇巡撫が代行 |
* | 魏廷珍 | 直隷景州 | 雍正10年9月庚寅 1732年10月24日 |
雍正11年1月壬辰 1733年2月23日 |
漕運総督が代行 |
17 | 高其倬 | 漢軍 鑲黄旗 |
雍正11年1月壬辰 1733年2月23日 |
雍正11年9月己卯 1733年10月8日 |
|
* | 趙宏恩 | 漢軍 鑲紅旗 |
雍正11年9月己卯 1733年10月8日 |
雍正12年5月壬辰 1734年6月18日 |
湖南巡撫が代行 |
18 | 趙宏恩 | 漢軍 鑲紅旗 |
雍正12年5月壬辰 1734年6月18日 |
乾隆2年1月庚子 1737年2月10日 |
京城に召還される |
19 | 慶復 (キンフ、kingfu) トゥンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆2年1月庚子 1737年2月10日 |
乾隆2年9月丁卯 1737年11月4日 |
雲貴総督に異動 |
20 | ナストゥ (nasutu、那蘇図) ダイギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆2年9月丁卯 1737年11月4日 |
乾隆4年10月戊申 1739年12月5日 |
|
21 | 郝玉麟 | 漢軍 鑲黄旗 |
乾隆4年10月戊申 1739年12月5日 |
乾隆5年5月甲子 1740年6月18日 |
解職 |
* | 楊超曽 | 湖南武陵 | 乾隆5年5月甲子 1740年6月18日 |
乾隆6年8月己酉 1741年9月26日 |
兵部尚書が代行 |
22 | ナストゥ ダイギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆6年8月己酉 1741年9月26日 |
乾隆7年4月甲午 1742年5月9日 |
閩浙総督に異動 |
23 | 簡親王徳沛 (デペイ) アイシンギョロ氏 |
乾隆7年4月甲午 1742年5月9日 |
乾隆8年2月庚子 1743年3月11日 |
京城に召還される | |
24 | イェンギシャン ジャンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆8年2月庚子 1743年3月11日 |
乾隆13年9月己未 1748年10月28日 |
|
25 | ツェレン (ts'eleng、策楞) ニオフル氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆13年9月己未 1748年10月28日 |
乾隆13年11月癸酉 1749年1月11日 |
川陝総督に異動 |
* | ヤルハシャン (yarhašan、雅爾哈善) アイシンギョロ氏 |
満州 正紅旗 |
乾隆13年11月癸酉 1749年1月11日 |
乾隆13年12月丁亥 1749年1月25日 |
代行する |
26 | 黄廷桂 | 漢軍 鑲紅旗 |
乾隆13年12月丁亥 1749年1月25日 |
乾隆16年5月戊寅 1751年7月25日 |
陝甘総督に異動 |
27 | イェンギシャン ジャンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆16年5月戊寅 1751年7月25日 |
乾隆18年9月壬申 1753年10月16日 |
|
* | 荘有恭 | 広東番禺 | 乾隆17年10月癸巳 1752年11月11日 |
江蘇巡撫が代行 | |
* | オヨンゴ (oyonggo、鄂容安) シリンギョロ氏 |
満州 鑲藍旗 |
乾隆18年1月戊寅 1753年2月24日 |
乾隆18年9月壬申 1753年10月16日 |
江西巡撫が代行 |
28 | オヨンゴ シリンギョロ氏 |
満州 鑲藍旗 |
乾隆18年9月壬申 1753年10月16日 |
乾隆20年 1755年 |
戦死 |
* | イェンギシャン ジャンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆19年8月丁巳 1754年9月26日 |
乾隆21年10月壬申 1756年11月29日 |
南河総督が兼務して代行 |
29 | イェンギシャン ジャンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆21年10月壬申 1756年11月29日 |
乾隆30年3月乙未 1765年5月9日 |
|
30 | 高晋 (g'aojin、ガオジン) ガオギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆30年3月乙未 1765年5月9日 |
乾隆44年1月乙未 1779年2月25日 |
死亡 |
31 | 薩載 (サヅァイ) イルゲンギョロ氏 |
満州 正黄旗 |
乾隆44年1月乙未 1779年2月25日 |
乾隆45年8月己巳 1780年9月21日 |
|
32 | 陳輝祖 | 湖南祁陽 | 乾隆45年8月己巳 1780年9月21日 |
乾隆45年12月 1781年 |
|
* | 薩載 イルゲンギョロ氏 |
満州 正黄旗 |
乾隆45年12月 1781年 |
乾隆48年1月戊申 1783年2月17日 |
代行する |
33 | 薩載 イルゲンギョロ氏 |
満州 正黄旗 |
乾隆48年1月戊申 1783年2月17日 |
乾隆51年3月丙辰1786年4月10日 |
死亡 |
34 | 李世傑 | 貴州黔西 | 乾隆51年3月丙辰 1786年4月10日 |
乾隆52年11月乙酉 1787年12月30日 |
四川総督に異動 |
* | 閔鶚元 | 浙江帰安 | 乾隆51年3月丁巳 1786年4月11日 |
江蘇巡撫が代行 | |
35 | シュリン (šulin、書麟) ガオギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆51年3月丁巳 1786年4月11日 |
乾隆55年5月己酉 1790年7月11日 |
免職 |
* | 福崧 ウヤ氏 |
満州 正黄旗 |
乾隆55年5月己酉 1790年7月11日 |
江蘇巡撫が代行 | |
36 | 孫士毅 | 浙江仁和 | 乾隆55年6月壬子 1790年7月14日 |
乾隆56年4月丁卯 1791年5月25日 |
吏部尚書を授かる |
* | 長麟 (canglin、チャンリン) アイシンギョロ氏 |
満州 正藍旗 |
乾隆56年4月丁卯 1791年5月25日 |
江蘇巡撫が暫定代行 | |
37 | シュリン (šulin、書麟) ガオギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
乾隆56年4月丁卯 1791年5月25日 |
乾隆59年7月甲辰 1794年8月14日 |
免職 |
38 | 富綱 (フガン) イルゲンギョロ氏 |
満州 正藍旗 |
乾隆59年7月甲辰 1794年8月14日 |
乾隆60年1月丙戌 1795年1月23日 |
|
* | スリンガ (suringga、蘇凌阿) タタラ氏 |
満州 正白旗 |
乾隆59年7月甲辰 1794年8月14日 |
刑部尚書が代行 | |
39 | 福寧 (funing、フニン) イルゲンギョロ氏 |
満州 鑲藍旗 |
乾隆60年1月丙戌 1795年1月23日 |
嘉慶元年6月癸卯1796年8月2日 |
四川総督に異動 |
* | スリンガ タタラ氏 |
満州 正白旗 |
嘉慶元年6月癸卯 1796年8月2日 |
嘉慶2年9月甲申 1797年11月6日 |
刑部尚書が代行 |
40 | 李奉翰 | 漢軍 正藍旗 |
嘉慶2年9月甲申 1797年11月6日 |
嘉慶4年2月辛丑 1799年3月18日 |
死亡 |
41 | 費淳 | 浙江銭塘 | 嘉慶4年2月辛丑 1799年3月18日 |
嘉慶8年6月戊子 1803年8月12日 |
兵部尚書に異動 |
42 | 陳大文 | 河南杞県 | 嘉慶8年6月戊子 1803年8月12日 |
嘉慶10年1月辛亥 1805年2月25日 |
左都御史に異動 |
43 | 鉄保 (tiyeboo、ティエボー) トゥンギャ氏 |
満州 正黄旗 |
嘉慶10年1月辛亥 1805年2月25日 |
嘉慶14年7月壬申 1809年8月24日 |
免職 |
44 | アリムボー (alimboo、阿林保) シュムル氏 |
満州 正白旗 |
嘉慶14年7月壬申 1809年8月24日 |
嘉慶14年12月壬辰 1810年1月11日 |
死亡 |
45 | 松筠(sungyūn、スンユン) マラタ氏 |
蒙古 正藍旗 |
嘉慶14年12月壬辰 1810年1月11日 |
嘉慶16年1月癸酉 1811年2月26日 |
両広総督に異動 |
46 | レボー (leboo、勒保) フェイモ氏 |
満州 鑲紅旗 |
嘉慶16年1月癸酉 1811年2月26日 |
嘉慶16年6月甲寅 1811年7月27日 |
京城に召還される |
47 | 百齢 張氏 |
漢軍 正黄旗 |
嘉慶16年6月甲寅 1811年7月27日 |
嘉慶21年11月壬子 1816年12月25日 |
|
* | 松筠 マラタ氏 |
蒙古 正藍旗 |
嘉慶21年10月戊子 1816年12月1日 |
大学士が代行 | |
48 | 孫玉庭 | 山東済寧 | 嘉慶21年11月壬子 1816年12月25日 |
道光4年7月丁未 1824年9月9日 |
体仁閣大学士に異動 |
49 | 魏元煜 | 直隷昌黎 | 道光4年12月戊辰 1825年1月28日 |
道光5年5月戊申 1825年7月7日 |
漕運総督に異動 |
50 | キシャン (kišan、琦善) ボルジギン氏 |
満州 正黄旗 |
道光5年5月戊申 1825年7月7日 |
道光7年5月丙戌 1827年6月5日 |
解職 |
* | 蒋攸銛 | 漢軍 鑲紅旗 |
道光7年3月己亥 1827年4月19日 |
道光7年5月丙戌 1827年6月5日 |
体仁閣大学士が代行 |
51 | 蒋攸銛 | 漢軍 鑲紅旗 |
道光7年5月丙戌 1827年6月5日 |
道光10年8月庚戌 1830年10月11日 |
京城に召還される |
* | 陶澍 | 湖南安化 | 道光10年6月辛卯 1830年7月24日 |
道光10年8月庚戌 1830年10月11日 |
江蘇巡撫が代行 |
52 | 陶澍 | 湖南安化 | 道光10年8月庚戌 1830年10月11日 |
道光19年3月乙巳 1839年4月22日 |
病気退任 |
53 | 林則徐 | 福建侯官 | 道光19年3月乙巳 1839年4月22日 |
着任しないまま両広総督に異動 | |
* | 陳鑾 | 湖北江夏 | 道光19年3月乙巳 1839年4月22日 |
道光19年12月癸亥 1840年1月5日 |
江蘇巡撫が代行 |
54 | 鄧廷楨 | 江蘇江寧 | 道光19年12月癸亥 1840年1月5日 |
着任しないまま雲貴総督に異動 | |
55 | イリブ (ilibu、伊里布) アイシンギョロ氏 |
満州 鑲黄旗 |
道光19年12月己卯 1840年1月21日 |
道光21年3月丁卯 1841年5月3日 |
京城に召還される |
* | 麟慶 (linking、リンキン) ワンギャ氏 |
満州 鑲黄旗 |
道光19年12月己卯 1840年1月21日 |
漕運総督が代理を兼ねる | |
* | 裕謙 (ioikiyan、ユキャン) ボラト氏 |
蒙古 鑲黄旗 |
道光20年7月丁酉 1840年8月6日 |
道光21年1月乙巳 1841年2月10日 |
江蘇巡撫が代行 |
56 | 裕謙 ボラト氏 |
蒙古 鑲黄旗 |
道光21年3月丁卯 1841年5月3日 |
道光21年9月己未 1841年10月22日 |
死亡 |
* | 牛鑑 | 甘粛武威 | 道光21年9月丙辰 1841年10月19日 |
道光22年9月己未 1842年10月17日 |
河南巡撫が代行 |
57 | 耆英 (kiing、キイン) アイシンギョロ氏 |
満州 正藍旗 |
道光22年9月己未 1842年10月17日 |
道光24年2月戊戌 1844年3月19日 |
|
* | 壁昌 (bicang、ビチャン) エルデト氏 |
蒙古 鑲黄旗 |
道光23年3月庚戌 1843年4月6日 |
道光23年10月己酉 1843年12月1日 |
福州将軍が代行 |
* | 孫宝善 | 山東済寧 | 道光23年3月庚戌 1843年4月6日 |
道光23年10月己酉 1843年12月1日 |
江蘇巡撫が管理する |
* | 壁昌 エルデト氏 |
蒙古 鑲黄旗 |
道光24年2月戊戌 1844年3月19日 |
道光24年12月丙午 1845年1月21日 |
福州将軍が代行 |
* | 孫宝善 | 山東済寧 | 道光24年2月戊戌 1844年3月19日 |
道光24年12月丙午 1845年1月21日 |
江蘇巡撫が管理する |
58 | 壁昌 エルデト氏 |
蒙古 鑲黄旗 |
道光24年12月丙午 1845年1月21日 |
道光27年3月乙未 1847年4月30日 |
内大臣を授かる |
* | 陸建瀛 | 湖北沔陽 | 道光27年1月壬寅 1847年3月8日 |
道光27年3月乙未 1847年4月30日 |
江蘇巡撫が代行 |
59 | 李星沅 | 湖南湘陰 | 道光27年3月乙未 1847年4月30日 |
道光29年4月壬寅 1849年4月26日 |
病気退任 |
60 | 陸建瀛 | 湖北沔陽 | 道光29年4月壬寅 1849年4月26日 |
咸豊3年1月壬申 1853年3月6日 |
免職 |
* | 祥厚 (シャンヘウ) アイシンギョロ氏 |
満州 鑲紅旗 |
咸豊3年1月壬申 1853年3月6日 |
咸豊3年2月丁酉 1853年3月31日 |
江寧将軍が代行 |
* | 楊文定 | 安徽定遠 | 咸豊3年2月丁酉 1853年3月31日 |
咸豊3年4月甲午 1853年5月27日 |
江蘇巡撫が代行 |
61 | 怡良 (iliyang、イリャン) グワルギャ氏 |
満州 正紅旗 |
咸豊3年2月癸巳 1853年3月27日 |
咸豊7年4月癸巳 1857年5月5日 |
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* | 趙徳轍 | 山西解州 | 咸豊7年4月癸巳 1857年5月5日 |
江蘇巡撫が代理を兼ねる | |
* | 何桂清 | 雲南昆明 | 咸豊7年4月癸巳 1857年5月5日 |
咸豊7年6月乙卯 1857年7月26日 |
前の浙江巡撫が代行した |
62 | 何桂清 | 雲南昆明 | 咸豊7年6月乙卯 1857年7月26日 |
咸豊10年4月癸未 1860年6月8日 |
免職 |
* | 曽国藩 | 湖南湘郷 | 咸豊10年4月癸未 1860年6月8日 |
咸豊10年6月丙戌 1860年8月10日 |
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* | 徐有壬 | 順天宛平 | 咸豊10年4月癸未 1860年6月8日 |
咸豊10年4月癸巳 1860年6月18日 |
江蘇巡撫が代理を兼ね、戦死 |
* | 薛煥 | 四川興文 | 咸豊10年4月癸巳 1860年6月18日 |
江蘇布政使が暫定代理 | |
63 | 曽国藩 | 湖南湘郷 | 咸豊10年6月丙戌 1860年8月10日 |
同治7年7月乙未 1868年9月6日 |
直隷総督へ移動する |
* | 李鴻章 | 安徽合肥 | 同治4年4月癸巳 1865年5月23日 |
同治5年11月丙辰 1866年12月7日 |
江蘇巡撫が代行 |
64 | 馬新貽 | 山東菏沢 | 同治7年7月乙未 1868年9月6日 |
同治9年8月丁酉 1870年8月29日 |
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* | 魁玉 (kuiioi、クイユ) フチャ氏 |
満州 鑲紅旗 |
同治9年8月丁酉 1870年8月29日 |
江寧将軍が代理を兼ねる | |
65 | 曽国藩 | 湖南湘郷 | 同治9年8月丁酉 1870年8月29日 |
同治11年2月丙寅 1872年3月20日 |
死亡 |
* | 何璟 | 広東香山 | 同治11年2月丙寅 1872年3月20日 |
同治11年10月丙子 1872年11月25日 |
江蘇巡撫が代行 |
* | 張樹声 | 安徽合肥 | 同治11年10月丙子 1872年11月25日 |
同治12年1月丙戌 1873年2月3日 |
江蘇巡撫代理が代行 |
66 | 李宗羲 | 四川開県 | 同治12年1月丙戌 1873年2月3日 |
同治13年12月甲戌 1875年1月12日 |
病気退任 |
* | 劉坤一 | 湖南新寧 | 同治13年12月甲戌 1875年1月12日 |
同治14年8月丙寅 1875年9月1日 |
江西巡撫が代行 |
67 | 沈葆楨 | 福建侯官 | 同治14年4月壬辰 1875年5月30日 |
光緒5年11月癸未 1879年12月26日 |
死亡 |
* | 呉元炳 | 河南固始 | 光緒4年2月乙巳 1878年3月28日 |
江蘇巡撫が代理を兼ねる | |
* | 呉元炳 | 河南固始 | 光緒5年11月癸未 1879年12月26日 |
光緒6年6月 1880年 |
江蘇巡撫が代理を兼ねる |
68 | 劉坤一 | 湖南新寧 | 光緒5年11月甲申政変 1879年12月27日 |
光緒7年7月戊子 1881年8月22日 |
京城に召還される |
69 | 彭玉麟 | 湖南衡陽 | 光緒7年7月戊子 1881年8月22日 |
光緒7年9月乙未 1881年10月28日 |
辞職する |
70 | 左宗棠 | 湖南湘陰 | 光緒7年9月乙未 1881年10月28日 |
光緒10年1月戊子 1884年2月8日 |
病気退任 |
* | 裕禄 (ioilu、ユル) ヒタラ氏 |
満州 正白旗 |
光緒10年1月戊子 1884年2月8日 |
安徽巡撫が代行が、着任していない | |
* | 曽国荃 | 湖南湘郷 | 光緒10年1月丙申 1884年2月16日 |
光緒13年7月甲戌 1887年9月6日 |
礼部尚書代理が代行 |
* | 裕禄 ヒタラ氏 |
満州 正白旗 |
光緒13年7月甲戌 1887年9月6日 |
光緒13年9月 1887年 |
湖広総督が代行 |
* | 曽国荃 | 湖南双峰 | 光緒13年9月 1887年 |
光緒16年10月丁未 1890年11月22日 |
代行する |
* | 沈秉成 | 浙江帰安 | 光緒16年10月丁未 1890年11月22日 |
安徽巡撫が代行 | |
71 | 劉坤一 | 湖南新寧 | 光緒16年10月丁未 1890年11月22日 |
光緒28年9月癸亥 1902年10月7日 |
死亡 |
* | 張之洞 | 直隷南皮 | 光緒20年10月戊申 1894年11月2日 |
光緒21年11月甲寅 1896年1月2日 |
湖広総督が代行 |
* | 鹿伝霖 | 直隷定興 | 光緒25年11月丙寅 1899年12月24日 |
光緒26年4月丙子 1900年5月3日 |
江蘇巡撫が代理を兼ねる |
* | 李有棻 | 江西萍郷 | 光緒28年9月癸亥 1902年10月7日 |
江寧布政使が管理する | |
* | 張之洞 | 直隷南皮 | 光緒28年9月癸亥 1902年10月7日 |
光緒29年2月丁未 1903年3月20日 |
湖広総督が代行 |
72 | 魏光燾 | 湖南隆回 | 光緒28年11月壬戌 1902年12月5日 |
光緒30年7月戊戌 1904年9月1日 |
閩浙総督に異動 |
73 | 李興鋭 | 湖南瀏陽 | 光緒30年7月戊戌 1904年9月1日 |
光緒30年9月戊戌 1904年10月31日 |
死亡 |
74 | 周馥 | 安徽建徳 | 光緒30年9月戊戌 1904年10月31日 |
光緒23年7月己酉 1906年9月2日 |
閩浙総督に異動 |
* | 端方 (ドゥワンファン) トテク氏 |
満州 正白旗 |
光緒30年9月戊戌 1904年10月31日 |
光緒23年7月己酉 1906年9月2日 |
江蘇巡撫が暫定代行 |
75 | 端方 トテク氏 |
満州 正白旗 |
光緒23年7月己酉 1906年9月2日 |
宣統元年5月己未 1909年6月28日 |
直隷総督に異動 |
* | 樊増祥 | 湖北恩施 | 宣統元年5月己未 1909年6月28日 |
江寧布政使が管理する | |
76 | 張人駿 | 直隷豊潤 | 宣統元年5月己未 1909年6月28日 |
宣統3年12月戊戌 1912年1月23日 |
免職 |
77 | 張勲 | 江西奉新 | 宣統3年12月戊戌 1912年1月23日 |
江南提督が代行 |
参考資料
[編集]- 『清史稿』巻一百十六・志九十一『職官三外官』