源頼清
源 頼清(みなもと の よりきよ)
- 源頼信の次男。村上氏の祖にあたる人物。本項にて詳述。
- 平安時代後期の武将、山県頼清(やまがた よりきよ)のこと。山県氏の祖・源国直の孫(父は源国政)。相模国田所目代となっており、天養元年(1144年)10月21日、源義朝の郎従らとともに大庭氏(大庭景宗)の屋敷を襲撃したとの史実が伝わっている。
源頼清 (平安時代中期)[編集]
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 長徳元年(995年) |
死没 | 延久5年7月18日(1073年8月23日) |
官位 | 従四位下中務少輔、安芸守、肥後守、陸奥守 |
氏族 | 河内源氏 |
父母 | 父:源頼信、母:修理命婦 |
兄弟 |
頼義、頼清、頼季、頼任、義政、 源為満室、源信忠室 |
妻 | 藤原斉信娘ら |
子 | 仲宗、兼宗、清宗、永源、家宗、季宗、憲宗、基宗ら |
源 頼清(みなもと の よりきよ)は、平安時代中期の武士・官人。河内源氏の祖・源頼信の次男。母は修理命婦で源頼義の同母弟。
従四位下に上り中務少輔・安芸守・肥後守・陸奥守などを歴任する一方、藤原頼通家の侍所別当も務めた。『後拾遺和歌集』(歌番号474)には、陸奥守から肥後守に転任する頼清に贈った相模の和歌がある。また『今昔物語』(巻12ノ36)には、貧乏暮らしをする左京大夫として登場する[1]。
子孫は信濃国北部に勢力を扶植し、村上氏、波多氏と称して繁栄している。
系譜[編集]
参考文献[編集]
- 元木泰雄「頼義と頼清-河内源氏の分岐点」『立命館文學』第624号、立命館大学、2012年、456-468頁、ISSN 02877015、NAID 110009511643。
脚注[編集]
- ^ 「今昔物語巻12の第36「天王寺道命阿闍梨語」」 『国史大系』 16巻、経済雑誌社、1901年、674-677頁。