浜口興右衛門

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咸臨丸の乗船者達 1860年、サンフランシスコにて。前列右から、福澤諭吉肥田浜五郎浜口興右衛門、後列右から、岡田井蔵、、小永井五八郎、、根津欽次郎。(万延元年遣米使節図録)

浜口 興右衛門(はまぐち おきえもん、文政12年11月15日1829年12月10日) - 明治27年(1894年10月15日)は、日本の武士幕臣。明治期の海軍技官は英幹(ひでもと)。

経歴[編集]

浦賀奉行所組同心から長崎海軍伝習所第一期生に選ばれ、航海術を修めた。与力上席軍艦操練所教授方となり、咸臨丸が太平洋横断を果たした際、運用方として大きな働きをした。後に軍艦頭取として蟠竜丸艦長を務め、位は大番格軍艦役並に進んだ。

維新後、明治4年に主船少師として横須賀製鉄所に勤務している。製鉄所が海軍に移管された後、海軍権少匠司に進む。従六位勲六等(単光旭日章)海軍少技監(奏任官三等)に任ぜられ、横須賀造船所造船科主幹となった。

浦賀奉行所の与力、同心には俳諧を嗜む者が多く、浜口も蕉雪の号を持ち、俳人としても知られていたという。

参考文献[編集]

関連項目[編集]