浅原才市

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浅原才市(あさはら さいち、1850年嘉永3年)2月20日 - 1932年昭和7年)1月17日)は、浄土真宗妙好人のひとり。石見の才市と呼ばれる。「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介された。

人物[編集]

  • 1850年嘉永3年)石見国大浜村字小浜(現 島根県大田市温泉津町小浜)に浅原要四郎(加島屋)とすぎ(原田屋)の子として生まれる[1]。父の要四郎は、手継ぎ寺である涅槃寺(井田村井尻)に役僧として出され、西教と称したが、家を継ぐため小浜に帰っていた。要四郎は、才市ができてからも涅槃寺の役僧をしていたという。才市も涅槃寺門徒である。
  • 1860年万延元年)、父方の祖母の実家、大家屋の元道鉄五郎のもとで大工職人の弟子奉公に入る。
  • 1869年明治2年)、年季奉公を終え、浜田県都野津町(現 島根県江津市)周辺に船大工の出稼ぎに出る。
  • 1874年(明治7年)、セツと結婚。この頃から、九州鞍手郡二本松(現 直方市)周辺に船大工の出稼ぎに出る。
  • 1882年(明治15年)、西本願寺帰敬式を受け、秀素という法名を授かる。
  • 1904年(明治37年)、郷里の小浜で下駄職人を始める。やがて、仕事の合い間などに「口あい」をかんな屑・木片・紙片などに書き綴り始めた。これは1913年以降、小学生ノートに書き写されるようになり、その数は7000首を越えると言われる。ただし、信心の間違いがないかを僧侶に見てもらう以外は、他人に見せることはほとんどなかった。
  • 1919年大正8年)、熱心な寺参りをほめられ困惑し、「わしが仏さんを拝むのは、この通りまったく鬼だ、と言うことを見てもら」おうと、「角のある肖像」を地元の日本画家・若林春暁に描いてもらう。絵は年末に完成し、翌年1月、日々参っていた小浜の安楽寺住職、梅田謙敬によって法要の折に披露された後、賛が書き加えられた[2]。当時の才市は無口で目立たない老人だったが、寺参りと聴聞の熱心さだけは際立っていたという。

脚注[編集]

  1. ^ 才市の母親については、トメという女性であるという説が1991年になって涅槃寺住職(当時)高木雪雄によって提唱された。一方、佐藤平は、涅槃寺から提供された資料(過去帳ほかの文書・伝承)のみならず戸籍、才市の遺族からの聞き取り、その他多くの資料を総合的に検討した上で、地元で伝えられるとおり母親はスギであるとしている。高木説は、資料などの点からこの佐藤の論を十分反駁してるとは言い難く、現時点においてはスギ説が妥当である。少なくとも、この佐藤の研究を批判対象として明示せず、代わりに「小浜を訪づれて直接才市の縁者に尋ねないで、村の老人たちから思い思いの推測と創作とを交えて才市について聞かされた」のがスギ説である(高木,19頁)と貶めるのは不当であろう。なお,高木説の概要は次の通りである。
    • 西教はトメと知り合い、結婚を誓う仲となるが、「トメは小浜の西教の一族たちには歓迎されなかったようである。昔は家と家との結婚のようなものであったから、一族の者から反対されると、小浜へ連れて帰る事は許されなかったのである。西教とトメは結婚して西教は涅槃寺に住い、トメは小田に住んだが、善教寺が無住の時は、二人は善教寺で共に暮らしたりもした。」(高木、280ページ)
    • また、西教は自らが僧侶になったことで家が絶えてしまうことを恐れ、息子の才市に家の再興を託したいと考えたが、上述のとおり妻を小浜に連れて帰ることもできなかったため、西教のいとこである、スギという女性に才市の養育を依頼した。1872年明治5年)の壬申戸籍では、スギや清九郎(スギの弟)の弟として才市は戸籍に入っており、スギの息子として戸籍に入ってはいない(高木、10-12, 18-19ページ)。
    • 母のトメは才市が18歳(19歳とも)のころに病で亡くなっており、枕元にいる才市に対し「お念仏さまをよろこぶ人になっておくれ」と遺言を残した。高木は、才市が自分の意思で寺参りを始めたのが18歳ごろからであることを挙げ、母の死が才市に与えた影響を論じ、才市の「親の遺言南無阿弥陀仏」の言葉も母の遺言のことを指すと論じている。実際、涅槃寺の過去帳には、門徒トメが死亡したこと、彼女の息子に才市がいることが記されている(高木、15-17ページ)。なお、「才市のことを記した出版物の中に、西教とスギとは夫婦で、才市が11歳の時に離婚して、西教は小浜の墓地の掘立小屋に住んで野山の花を売って生活し、スギは(中略)裕福な家に、才市を親元に残して再婚したとあるが、(中略)これは単なる創作にして、事実無根のことで、これについて遺族や親類は憤慨をしているけれども、反論の方法を知らず今日まで耐えて来た。こんなわけで、この書に於いて、西教とスギとの真相に就いて詳しく記した」(高木、287-288ページ)と上記の論証は結ばれているが、佐藤は、上述の通り、高木や才市の遺族からも聞き取り調査をした上で、母はスギであると結論している。
  2. ^ 寺本、96-99ページ。なお、描かれた経緯やその後については異説もある。高木、145-147ページ参照。

参考文献[編集]