武石浩玻

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武石浩玻

武石 浩玻(たけいし こうは、1884年明治17年)10月20日 - 1913年大正2年)5月4日)は日本の飛行家。日本の民間飛行家として最初の航空事故による犠牲者でもある。本名は道之介

経歴[編集]

茨城県那珂郡勝田村勝倉(現・ひたちなか市勝倉)出身。1902年明治35年)、茨城県尋常中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒業後、渡米。職業を転々としながら放浪を続け、イェール大学に入学するも中退。1910年(明治43年)、ユタ州ソルトレイクシティで『ロッキー時報』という邦字新聞の主筆を務めながらユタ大学に通学していたが、この時、フランスの飛行家ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志す。

当初はライト飛行学校に入学したが、1912年(明治45年)2月にカーチス飛行学校に転じ、同年5月、飛行免状獲得。1月に合格した滋野清武、4月に合格した近藤元久に次ぐ、日本の民間人として三番目の飛行家となった。

1913年(大正2年)4月、日本に帰国。同年5月4日、大阪・京都間の都市間連絡飛行に挑んだ際、京都深草練兵場への着陸に失敗し墜落死。28歳。民間飛行家として最初に日本の空を飛んだ人物であり、民間飛行家の日本における最初の犠牲者でもある。アメリカでは前年に近藤元久が犠牲となっている。

なお、「『白鳩号』に乗って墜落死した」と書かれている資料が多いが、これは事故後、久邇宮邦彦王によって付けられた名前であり、浩玻の生前は飛行機に名前はなかった。また、「白鳩」であり、「白鳩号」ではない。

参考文献[編集]