榊原照久

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榊原照久
時代 江戸時代前期
生誕 天正12年(1584年
死没 正保3年8月7日1646年9月16日
改名 清久(初名)→照久
戒名 秋巌
墓所 静岡県静岡市駿河区安居の宝台院別院
官位 従五位下、大内記従四位下、従二位
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 榊原氏
父母 父:榊原清政
兄弟 榊原清定、内匠某、照久
女(石野廣次室)、女(仁木義忠室)、女(小笠原勝信室)
間宮信繁
女、照清、久重、久政、久近、久通
養子:政壽江川太郎左衛門室)

榊原 照久(さかきばら てるひさ)は、江戸時代前期の武将にして神職。榊原清政の三男。榊原康政の甥。

生涯[編集]

江戸時代初期に活躍した徳川氏の家臣。父清政とともに徳川家康に近侍し、慶長5年(1600年)、はじめて家康に御目見し、以降側近くで仕える。慶長12年(1607年)5月、父清政の死去に際し、駿河国久能山の城番を継承し、のち同国有渡郡の地に石高1800石を賜った。大坂の陣に際しては参戦を願うも、久能山は要所の地であることから家康の厳命により、久能山に留まる。元和2年(1616年)4月17日、家康薨去の際、幕命により祭祀を執行。以後、祭主として久能山に留まり霊廟の神事を斎行。元和3年(1617年)8月28日、夢枕に家康のお告げを受け、諱を照久に改める。元和4年(1618年)5月13日、従五位下大内記に叙任。同年6月24日、従四位下に昇叙。大内記如元。元和8年(1622年)6月20日、異例のことにて従二位に昇叙。上洛し、同年8月12日、昇殿を聴される。正保3年(1646年)8月7日薨去。久能山の地に一寺を建立し、照久寺と称し同寺に埋葬された。因みに照久寺は昭和60年(1985年)に宝台院と合併し、翌年、宝台院別院[1]として静岡市駿河区安居に存す。

久能山東照宮祭主[編集]

伊勢神宮祭主は、神祇大副(あるいは権大副)を本官として兼務することを例とし、三位以上の位階となることも多々あり、それに似せて、東照大権現を祀る久能山の祭主も高位を試みた。榊原照久が従二位昇叙後、上洛し昇殿を聴されるといった経緯にその政治的意味合いがみてとれる。一方、幕府内ではそこまで高位に叙する必要性があるのか、といった見方もあり、結果として照久一代限りの措置となり、子孫は久能山守衛総御門番として継承し、交代寄合となり、帝鑑間詰めで位階も従五位下(官職は越中守)が定着する。因みに、照久従二位叙任の年である元和8年の段階での伊勢祭主は藤波種忠であるが、位階は正五位下、本官は神祇権少副といった状況であった。榊原照久の従二位叙位を契機に、伊勢神宮祭主も種忠の孫景忠が祭主の代に従二位、さらに正二位への昇叙がなされた。

逸話[編集]

徳川家康の死因として伝わるのが「鯛の天ぷら」による食中毒説である。この話について、「徳川実録」に拠れば、元和2年1月21日当時、鷹狩のために田中城に滞在していた家康の下を訪ねた京の豪商茶屋四郎次郎清次が、京で評判になっている目新しい料理法として”鯛をの油で揚げ、その上にをすりかけて食べると美味”と紹介したところ、家康はたまたま届けられていた鯛を調理するよう命じ、それを供した家康は日頃の節制を忘れ大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたところ、その夜から腹痛が始まり快方に向かわないため駿府城に戻り療養したが、数か月後に死亡した、というのが大方のあらすじであるが、この鯛を家康に献上したのが、久能城代であった榊原照久である。

脚注[編集]

  1. ^ [1]

参考文献[編集]

  • 徳川実紀
  • 寛政重修諸家譜
  • 藤波家文書研究会『大中臣祭主藤波家の歴史』続群書類従完成会、1993年
  • ゆまに書房 高田藩榊原家書目史料集成4巻 榊原家御系図