森源三

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森源三

森 源三(もり げんぞう、天保6年11月24日1836年1月12日)- 明治43年(1910年)6月4日)は、幕末の越後長岡藩士明治期の地方官吏・政治家である。

森の私邸は後に北海道知事公館の前身となった。

人物経歴[編集]

越後長岡藩士・毛利忠平治(あるいは忠平)の子としてに生まれ、毛利広之丞と称した。青年時代は江川英龍の塾で洋学砲術を学び、北越戦争では河井継之助の指揮のもとに戦った。長岡敗戦後は藩庁に勤務して、戦後の長岡の復興に努めた。

明治2年(1869年)には藩主牧野忠恭の命により森 源三と改称し、また戦死した河井継之助の遺族を扶養した。
明治3年(1870年)、旧長岡藩が柏崎県に併合されると県の少参事に登用された。
明治5年(1872年)、開拓使に出仕で北海道に転じ、農事掛・学校掛を勤めた。
明治8年(1875年)、開拓大主典に補された。同年東京にあった開拓使仮学校札幌に移転。
明治9年(1876年)、黒田清隆クラーク博士とともに開拓使学校を改め札幌農学校として開校した。
明治14年(1881年)2月、森 源三が札幌農学校の第2代学校長に就任した。
明治22年(1889年)、官吏の職を辞した。妹背牛(北海道雨竜郡妹背牛町)で自営農場を開拓。またマッチ工場・札幌木挽所を経営した。
明治35年北海道で初めての衆議院議員の一人となった。
明治43年(1910年)東京に上京のおり発病し、同年6月4日に長岡で死去した。享年74。

逸話[編集]

  • 戦死した元長岡藩総督・河井継之助に実子がいなかったが、明治15年(1882年)河井家の再興が許されたため、森源三の次男・森 茂樹を河井家の養子として後継させている。